家臣たちは、おおかた鎌倉か小田原あたりになるだろうと予測していた。
北条征伐の後、関東二百五十万石に封ぜられた家康が、その居城として定めるべき城は、である。
それがいざ蓋を開けてみれば「江戸」などというとんでもない大田舎の名が飛び出してきたものだから、彼らの受けた衝撃たるや計り知れない。驚きを通り越して愕然とする者さえあった。
このあたりの消息を、江戸中期の軍学者、大道寺友山によって編纂された『岩淵夜話別集』なる書物にたずねてみると、
家康公領知となり候へども、御在城の義は未だ
おおよそこのように記されている。
これはもう、「田舎」どころの騒ぎではない。一面の荒蕪地であるだろう。
しかもこれがまんざら誇張でもなさそうなのは、一昔前にこの地を旅した北条氏康の『武蔵野紀行』に、
東に筑波、西には富士を眺めて、月は草より出でて草に入る、其武蔵野は渺茫として眼も遥かなる大野であつた。
それより武蔵野を狩ゆくに、誠に行けどもはてのあらばこそ萩芒女郎花の露にやどれる虫の聲々、あはれを催すばかりなり。
行くも帰るもはてしなければ
と述べられているからである。
江戸はこの、どこを見廻しても萩と芒と女郎花しかない武蔵野の、つまらぬ一郷に過ぎなかった。
どう考えても、関八州の太守たる者が君臨すべき城ではない。
家康の意図がさっぱり読めず、家来という家来はことごとく困惑の渦に突き落とされた。
正直な話、筆者にさえもわからない。家康は容易に腹の内を明かさぬ男で、この時もその癖が
さて、いよいよ天正十八年(1590年)八月
はじめてこの地に城を築いたのは扇谷上杉氏の老臣、太田道灌なる男。築城のきっかけについては霊夢を見たとかなんとか怪しげな伝承が残っているが、目的としたところは明快で、川越城と連携して北方の脅威に対抗せんがために相違なかった。
ところが扇谷上杉氏が北条勢力に敗れたことで、城は北条氏の支城として組み込まれ。
築城からおよそ130年を経過した、この家康関東入国のときには、川村兵部大夫なる北条系の人物が江戸城の守備に就いていた。
彼を「退転」させて新たなる城主となった家康が見た江戸城の内実というものが、いったい如何なるものであったか、やはり大道寺友山の『落穂集』から参照したい。
その節御城内は先の城主遠山左衛門(筆者註・遠山景政を指す。前述の川村兵部大夫の兄に該当)が居宅そのままに相残りこれあり候へども、なかなか籠城のうちに捨置候ゆへ、ことごとく破損に及び、其上取りふき仕り、屋根の上を籠城の節土にてぬり候に付、そのもり雫にて畳先き物等もくさり果候を、ことごとく御修復仰付けられ、諸役人昼夜骨をおり、やうやくと御入国の間にあひ候とこれある儀を、長崎彦兵衛と申て甲州代官の手代を勤候よしの老人常に物語候(後略)。
廃墟同然に荒れ果てていた内装を、この長崎彦兵衛のような忠良なる役人たちが、必死の思いで馬車馬のように働いて、どうにか人間の暮らせる環境程度に修復してくれていたらしい。
更に石川正西なる、当時の旗本が残した『見分集』をのぞいてみると、
…山の手は皆野原にて御座候ひつる。西の丸も野にて御座候ひつるを新規に立てなされ候。山の手の総ほりもその以後に仰付られ御ほらせなされ候。
とあるから、本当に草ぼうぼうのだだっ広い野っ原に、本丸だけがぽつねんと佇んでいた情景が想像できる。
この段階からよくもまあ、海内を圧倒する将軍家の「力」と「権威」の象徴たるに相応しい、あの千代田城まで持って行けたものである。
しかもその千代田城たるや、維新の動乱を経てなお死なず、今日に至るもなお皇居として光輝を放ち続けているのだから、それを思えば権現様の偉業のほどに、いよいよ感服せざるを得ない。
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