神田山が崩されたのは、慶長八年(1603年)のことだった。
「
山を崩し、その土砂で海を埋めたのである。
その風景は、相模三浦氏の一族に生まれ、のち南海坊天海に帰依した三浦浄心の『慶長見聞集』に於いて詳しい。
当君、武州豊島郡江戸へ御うち入しよりしこのかた町繁盛す。然れども地形広からず、是によりて、豊島の洲崎に町を建んと仰ありて、慶長八年卯の年、日本六十余州の人歩をよせ、神田山をくづし、南の海を四方三十余町うめさせ陸地となし、その上に在家を立給ふ。この町のほか家居つづき、広大なる事、南は品川、西は田安の原、北は神田の原、東は浅草まで町つづきたり。
江戸町のあとは大名町となり、今の江戸町は十二年以前迄は大海原なりしを、当君の御威勢にて海をこの陸地となし町を立給ふ。
百万大都市の基礎固めは、このようにして行われたわけである。
ところでこのように街が発展する下地が整い、四方から人が流入してくるようになると、自然な勢いとしてとある職業の従事者が目立って数を増やしはじめる。
傭兵と並んで人類最古の職業と称されもする、「遊女」がすなわちそれである。
堂々たる江戸幕府の老臣たちは、この現象を決して軽視することなく、額を寄せ合い大真面目に協議したのだ。このままでは武士の鉄腸が蕩かされ、いざ合戦の際に何の役にも立たぬ木偶揃いに化するのではあるまいか――。
ついにこの問題は家康の上意を仰ぐところにまで至り、その間の消息を、『事蹟合考』は以下の如く伝えている。
江戸中所々に追々遊女屋の出来候節御年寄中御停止にも仰付らるべくや、諸武士惰弱に罷成候はん義如何と
なんという――
なんという人間心理に通暁した君主であろうか、徳川家康という方は。
地方民が「都会」に対して期待するところのものを、痛いほどに知悉している。
清濁併せ呑む度量の広さが、間違いなくこの漢には存在していた。
ついでながら『事蹟合考』について補足しておくと、この書物は江戸中期の国学者である柏崎具元の手によるもので、「江戸開幕期の諸相を懐古の対象としながら客観的な叙述に徹している」と評価が高く、大田南畝や山東京伝など、後々の考証家の間でもよくこの本が取り沙汰された。
家康自身、そこまでの自覚はなかったろう。
だが、彼のこの裁断は、間違いなく後の日本文化の在り方を決定付けた。
東照大権現のこの一言があったればこそ、吉原は城下町にその存在を赦されて、京都の島原、大阪の新町と相並び、日本三大遊郭と讃えられるまで盛況を極めることが出来たのである。
もし、家康公のおつむりが腐れ儒者のように固く、「道徳」の順守に躍起になって、全然反対の対応に出ていたならばどうなっていたか。
当然、葛飾応為の『吉原格子先之図』は生まれ得ず、
井原西鶴の『好色一代男』からは小紫太夫や高雄太夫などの吉原美人が消滅し、
吉原を題材とした数多の川柳も詠まれなかったことになり、『柳樽』がさぞや寂しくなるだろう。
(Wikipediaより、吉原格子先之図)
具体例を列挙してゆけばキリがない。なんとなれば江戸を盛りと花開いた町人文化の源泉とは、遊郭にこそ見出されるからだ。
文学も、
劇も、
音楽も、
絵画も、
花街をその材料に含まぬものはほとんどない。
なればこそ「三大」の欠落――否、
家康公御自身は、芸術に何らの興味も見出さない
彼の眼中、ただ実利だけがあった。
しかし彼の執った政策が、その後の江戸芸術に資するところは無限である。
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