穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

神秘なるかな隠れ里 ―三面村・後編―

 

 寺の壁を突き抜けて、背後の山から不特定多数の人間の叫び声が聞こえて来たのはちょうどその時のことである。


 言語として意味をなさない、しかし一種憑かれたような異様な迫力を感じさせる「叫び」の威力は、某の浪漫に富んだ想像をこなごなに打ち砕くには充分だった。急遽現実へと強制送還させられた某はあわれなまでに動揺し、腰を浮かせながら


 ――あれは何だ。


 と、宙に向かってあえぐように呼ばわった。
 その問いを、小池大炊之助村長が機敏に引き取り、


「あれは山で熊が獲れたので、猟に出ている者共がそのことを、山の神様に御告げ申してお礼を言っているのでございます」


 長者の風格そのものの落ち着きぶりで答えてくれた。
 その後の会話は、しぜん三面村の特徴的な熊猟へと流れていった。

 

 

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 秋の収穫が済むと村中の屈強な男どもは徒党を組んで熊猟に出かける。彼らは山へ入る七日前から男女の関係を断ち、寺に籠って斎戒沐浴する。そうして身の穢れを落とさぬままみだりに山へ踏み込めば、山神様の怒りを買うと信じているのだ。


 多くの「山の民」がそうであるように、三面村の人々も山を神聖な領域と認め、その清浄さを守るべく様々な努力を払っていたようである。


 特に徹底している点は、狩猟目的で山へ踏み込んだが最後、何が起きようと絶対に人間の言葉でものを喋ってはならないという掟だろう。


 代わりに三面村の猟師たちは、「山言葉」なる特別の言語で用を弁ずる。


 言語ですら、俗界のモノは持ち込み禁止というわけだ。そういえば神道に於いても、浄闇の中では口を利いてはならないというシキタリがある。「清浄さ」に対する異様なまでのこの執念は、あるいはその流れを汲むものか。


「歌聖」柿本人麻呂を祀った人丸神社が「カキノモト火トマル」という語呂から転じて、いつしか火難除けの神様として崇められていた実例もある。時の流れは思いもよらぬ彫琢を万事に対して施すものだ。

 

 

Akashi Kakimoto-jinja04s5s2490

Wikipediaより、人丸神社)

 


 三面村の熊猟は、主に落とし穴を用いて行われる。
 熊の通り道に仕掛けるか、仕掛けた場所に熊を追い込んでかから・・・せる・・といったやり方だ。


 獲れた熊はそのまま山中で解体し、肉は猟師たちの食料にして皮と胆だけを里へ持ち帰る決まりである。ただ、その年はじめて獲れた熊だけは肉を村中の者で分け合い喰うのも、また掟の定めるところだ。


「いまの声がそうですよ」


 先刻某の臓腑を揺さぶった例の「叫び」は、その「初物」が獲れたことを報せるものだと、小池村長はさも嬉しそうに言うのであった。


 その日の夕めしの膳部には、特別の好意で訪客たる某たちにも熊肉を煮込んだ汁物が饗せられる運びとなった。


 喰ってみると、味はもとより、胃の腑の底からじんわりと熱があふれだし、指先まで浸潤してゆくのが感ぜられて得も言われぬほど快い。こりゃあ精がつくだろう、と某は大いに舌鼓を打った。

 

 

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 (Wikipediaより、熊鍋)

 


 一行が三面村を離れたのは翌朝である。


 払暁であるにも拘らず、出発に際して村長は例の法螺貝を遠慮会釈なく吹き鳴らし、それを聞きつけた村人たちがこぞって戸外へ走り出て、彼らを村端の渡し場まで見送った。
 外界から隔絶されたこの地に於いて、他所からの訪ね人が如何に貴重で珍しきものかよくわかる。


「また来てくださいな」


 そんな言葉が、村長をはじめ居並ぶ人々の口から次々に洩れた。某にとって、これほど人間の温かみというものを実感した瞬間はなかったろう。どんなに意固地な人間でも、ここまで丁重にもてなされれば胸奥を波打たせずにはいられまい。

 


 その三面村も、昭和六十年、奥三面ダム建設により地上から消えた。

 

 

Okumiomote Dam right view

Wikipediaより、奥三面ダム) 

 


 かつて村があったと思しき場所には、ダムによって新たに誕生した人造湖あさひ湖が静かに天を仰いでいる。
 村人たちはそのほとんどが村山市に集団移転し、そこでの生活に溶け込んでいった。

 


 ところで、小池大炊之助村長が大事にしていた例の帳面は、その後どうなったのであろう。
 彼らの間でのみ意味が通じた「山言葉」の詳細と同じく、もはや確かめる術はない。

 

 

ひぐらしのなく頃に 奉 通常版 - PS4
 

 

 

 


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