穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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神秘なるかな隠れ里 ―三面村・前編―

 

※2022年4月より、ハーメルン様に転載させていただいております。

 

 以前紹介した霧中衆風波村と比較して、三面村みおもてむらの輪郭はかなりはっきり判明している。


 新潟県山形県の県境を為す朝日連峰の懐深く、三面川の清流ながるるその側に、かつて存在した村落だ。

 

 

Mt Oasahi 2

Wikipediaより、朝日連峰

 


 永らく他の地方と交通のなかった山人たちのこの村も、明治維新から立て続けに押し寄せた文明化の波には抗えない。きちりと行政区分に組み込まれ、定期的に収税官が派遣される仕組みも整えられた。


 ――その収税官の一行に。


 明治三十三年十月中旬、民俗学的興味の旺盛な某なる人物が同行を願い出て受諾され、平家の落ち武者を祖に戴くというこの隠れ里の実景を、巨細なく目に焼き付けたことがある。


 この某は相馬御風とも親交があり、彼の三面村に関する口述を、相馬は後に「落人の村」なる小稿にまとめ自らの著書『凡人浄土』に掲載した。


 以下、私が記す内容も、相馬のこの『凡人浄土』に依るところが非常に大きい。

 

 

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(相馬御風)

 


 某を加えた収税官一行は、まず岩崩という過去に何があったか容易に想像がつきすぎる小字こあざに於いて一泊し、翌未明、未だ陽の昇らざる暁闇をついて出発した。


 岩崩から三面村までは七里半の距離がある。一里を4㎞に単純換算して考えると、実に30㎞の懸隔だ。しかもこの30㎞は、なだらかに整地された道路の30㎞を意味しない。


 山路やまみちなのだ。


 ときには藤蔓を頼りに断崖を攀じ登ることすら余儀なくされる過酷な道で、一行がこの行程を踏破するまでに十一時間を要したというから、出発の際には山の向こうに隠れていた太陽も、とうに天頂から傾いて空を茜に染めつつあったに違いない。


 未明に岩崩を発つわけだ。


 そうでもせねば、山中で夜を迎える危険性が看過できぬほど高くなる。すなわち、命の危機である。
 税とはこうまでして取り立てねばならぬものなのか、と、なにやら妙な感慨さえ抱いてしまう。


 しかもこの十一時間のあいだというもの、一行が遭遇した自分達以外の人間は、たった一人きりだったというのだから凄まじい。おまけにそのたった一人の人物も、三面村の住人ときては何をかいわんや。本当に「人も通わぬ山奥」だ。


 その人物を最初見たとき、某はてっきり「大きな猿が近づいて来た」と思い込んで身構えたという。


 装束はもとより、時々妙な叫び声を上げながら樹の枝を伝うようにしてあっという間に山を下りてくるそのさまは、どう見ても猿としか思えなかったのだ。


 三面村の住民は、山の中を歩く時には必ずこうして叫び続ける。


 それは狼の遠吠えや、或いは鷹の鳴き声さながらに、山に居る者同士で呼び合い、淋しさを紛らわしたり力を添え合ったりするためである。


 旧き野性の習慣だ。未だ三面村の屋根ひとつ見ぬ段階というに、早くも異境に入った心地がするではないか。

 

 

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 やがて幾つめかの峠を越えると、にわかに視界が広くなり、三面村のたたずむ盆地の姿が現れた。


 このとき、村の構成は人家二十九戸に寺一戸
 昭和六十年の記録では四十二戸、一五〇人となっているから、八十五年間のあいだにだいぶ栄えたことになる。


 盆地の真ン中にはかなり大きな河が貫流しており――おそらく三面川だろう――、その向こう側に三面村の家々が見えた。


 橋は架かっていない。
 代わりに、渡し舟がある。
 しかもその舟ときたら一本の丸太を刳りぬいて造られる独木舟で、いまどきアイヌの間でしかお目にかかれないと思われていた珍品との遭遇に、某は疲労も忘れて興奮した。

 

 

Annual report of the Board of Regents of the Smithsonian Institution (1890) (18247334618)

Wikipediaより、明治二十年撮影、アイヌの独木舟)

 


 時代的なのは、舟ばかりにとどまらない。
 その漕ぎ手たる渡し守まで、一行の姿を認めるや、ぱっとその前に平伏し、


「ようこそおいでくださりました」


 と、うやうやしく述べるのだ。
 明らかに身分制度の生きていた、江戸か戦国あたりのままで時間が凍結してしまっている。


 なにぶん独木舟のことだから、一度に大勢を運べない。
 一行は二人づつに分かれて順々に向こう岸に運んでもらった。
 その反復作業が終了し、再び一同揃ったときには村の隅々まで「来客」の報せが伝わっており、羽織袴をつけた五十いくばくかの男性を先頭にして、十人あまりの村人が出迎えのため態々渡し場までやって来ていた。


 この羽織袴の男性が、やはり当時に於ける三面村の村長格で、小池大炊之助なる姓名である。


 時代的なのは名ばかりでない。大炊之助は一行の前に進み出ると、流石に渡し守の如く平伏まではせなんだものの、それでも深々と頭を下げて、代官を迎える庄屋そのものの口ぶりで歓迎の意を長々と述べた。


 彼に付き従う十数名も、それに合わせて黙って頭を下げ続けている。


 大日本帝国に、まだこんな場所があったのか――。


 期待以上の異境・秘境・隔り世ぶりに胸を躍らせ、某はついに三面の本村へと乗り込んだ。

 

 

かくれ里 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

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