西ボルネオの港町、ポンティアナックが未だオランダの統治下にあった頃のこと。やがては赤道直下の諸都市群中、最大規模に膨れ上がるインドネシアのこの街も、第二次世界大戦以前に於いては人口せいぜい三万程度の一植民地に過ぎなかった。
(ポンティアナック市街の遠望)
衛生状態は悲惨の一言。昭和八年、クラーレ毒の研究のため当地を踏んだ日本の医学者、小倉清太郎なる人物は、当時の街の実景を次のように報告している。
市の人口の大部分を占めてゐるのはマレー人であるが、彼らは一日二、三回、多きは数回のマンデー(水浴)をする。男女を問はず、市街を流れてゐる泥水に近い濁水の中でバチャバチャとやってゐる。否それどころか、彼等は泥水浴?と同時にこの水で、平気で
それから飲料水は雨水を溜めて用を便じてゐるが、どこの水槽を覗いて見ても
疫病の温床といっていい。
チフスや赤痢が蔓延るわけだ。病原体にとっては、これ以上ない天国のような場所だろう。
(水浴するマレー人)
千年前から同様の暮らしを継続して慣れきっているマレー人にはこれでよくとも、所謂「文明圏」からやって来た新参者にはたまらない。彼らは環境に盲従するばかりでなく、人為的に手を加え、改良する術を心得ている。
現に小倉が訪れる何年か前、ポンティアナックの郊外に掘り抜き井戸を作ったらどうかと思いついた日本人がいたそうだ。せいぜい十数人程度といえど、南洋遥かなるこの地にも日本人は住み着いていて、それぞれ石鹸製造、雑貨商、写真、洗濯、鍼灸、旅館などの業務を営んでいた。
清潔好きな日本人のことである。入れるものなら毎日でも熱い風呂に入りたいし、喉の渇きを蟲の涌いた雨水でなく、透き通った清水によって潤したいと考えるのは人情からいって自然であろう。
そうした意味で待望の工事といってよく、期待を背負って開始された事業だったが、数メートルも掘らぬ間に、思わぬ横槍が入れられた。
意外にも、同じ文明圏からやって来たはずのオランダ当局があれやこれやと不都合を言い立て、精力的に工事を妨害しはじめたのだ。
(ボウフラの涌く天水桶)
井戸が出来ればその恩恵にあずかれるのは彼らも同様なはずなのに、これはどうしたことだろう。
原因は、政治にあった。
実はポンティアナックに井戸を掘り、水を確保し衛生の向上を図るというのは過去オランダ当局も試みたところだったのだ。しかし彼らは失敗した。けんもほろろな敗退だった。
ならばとばかりに今度は河水を濾過する装置の導入に努めたが、こちらの効果も芳しくない。「水の問題について、オランダはかなり努力はしたらしいが、いづれもその功が現はれてゐない」というのが、小倉清太郎の見解だった。
にも拘らず、ここで若し、日本人の掘り抜き井戸が成功すれば影響はどうなる?
オランダの面目は丸つぶれとなるだろう。
白人に出来なかったことを黄色い肌の日本人がやり遂げたということで、マレー人の精神に起きる変化も見逃し難い。
つい先日も、軍艦奪取事件が起きたばかりだ。オランダ人の将校連が船から降りて街で遊んでいる隙に、植民地人系の下級水兵が蜂起して艦を乗っ取ってしまった一大不祥事。
最終的には鎮圧したが、政府は随分と肝を冷やした。
同様の危険性は、ここポンティアナックにも胚胎している。駐屯軍の将校は全部オランダ人だが、彼らの手足となって働き、実際に銃をぶっ放す下士官以下の連中は、ことごとくマレー人の傭兵頼り。
理事官が不安に取り憑かれるのも無理はない。
――畢竟、動乱の芽は事前に摘むべし。
そういうことになった。
実利よりも、体面こそを優先したわけである。
見ようによっては馬鹿馬鹿しいが、これが政治というものであろう。そして一度潰すと決めれば、日本人は非常に容易い相手であった。
なにしろ、西ボルネオには領事館すら存在しない。当局から理不尽な圧力をかけられたところで、訴え出る先がないのである。文句を言いたくば態々ジャワやバタビアまで出る必要があり、その煩雑さは名状し難い。
おまけに多大な金と時間を費やしてそこまで赴いたとしても、外務省の役人どもがどの程度の熱心さで苦情を聞いてくれるのか、甚だ疑問といっていい。仕掛けるオランダ側からすれば、赤子の手をひねるようなものだったろう。
間もなく工事は打ち切られた。
(Wikipediaより、ポンティアナック通り)
似たような話は世界中にいくらでもある。日露戦争後、せっかく鉄道利権を得たのに満州への移民が遅々として進まず、「小大隈」の異名をとったあの永井柳太郎でさえ、
「日本人は島国根性が滲み付きすぎていて困る」
とこぼしたものだが、彼の地に渡った日本人がいったいどんな境遇を強いられていたか、真に理解していた政治家は何人いたか。
日本の婦人達は夜は少しも外出できない。昼でもうっかりすると、支那の兵隊に裾をまくられたり何んか悪戯をされる。子供は学校の還りに支那子に石を
満州事変の約半年前、彼の地を訪れた松波仁一郎法学博士の弁である。
こんな土地に、いったいどんな物好きが態々移り住もうと思うのだろうか。事変勃発に際して、国民が快哉を叫んだのもむべなるかな。先人が味わった肩身の狭さは、決して忘れていいものではない。
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