穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

神秘なるかな隠れ里 ―霧中衆・風波村―

 

 デンマークの文芸史家、ゲーオア・ブランデスはその名著『ロシア印象記』に於いて、ロシア人の放浪好みな性癖に触れ、その淵源を、この国の自然のあまりにも雄大な単調さにこそ見出した。「茫漠とした曠野に断えず彼方へ彼方へと人を誘う魅力がある。限りなき空想を起させ、漂泊の欲を誘い、新しい渇きを呼び出して行けども尽きない野末を追い極めさせようとする」、と。


 その国の自然的特徴が民族性の形成に資するところの巨大さを、ブランデスは説いている。


 ならば四境を海に囲まれ、何処まで行っても山また山の重畳し、水は一ツ処にとどまらず、絶えず岩を噛んで奔流する、わが日本国の国土はそこに棲まう人々をして如何なる民族性を育ませたのか。


 少なくとも、ロシアのそれとはまるで異なるモノであるのは間違いない。


 ロシアにあっては地平線こそ胸を焦がす憧憬の対象に他ならなかった。対して日本人が浪漫を託した対象は、多くの場合「人も通わぬ山奥」だった。

 

 

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 天を縁取るあの山々の奥深く、緑の魔境の何処かには、人間のちっぽけな常識ではとても計り知ることの出来ない神秘的な「何か」が息づいているに違いないと。――想像の翼をたくましくして、妖魔や神仙、桃源郷を想ったものだ。


 隠れ里もまた、そうした興味の範疇に入れてしまっていいだろう。


 麓からではどうやっても見通せない、地形的に隔絶された何処か深みに、時代から切り離された人々が、今も古式そのままの生活を営んでいるに違いない――。
 これまた日本人好みな想像であって、近いところでは『隻狼』が、その欲求に応えてくれた。「源の宮」など、まさに山中異界の極みではないか。


「源の渦」と呼ばれる巻雲によって絶えず包まれ、仰ぎ見る葦名の人々にすらその姿を捉えることを赦さない、いと貴き方々の坐する場所。それが「源の宮」である。


 これと似たような伝説が、現にあった。信越の国境を成す山岳地帯の何処かには、一年の半分が雪に鎖され、もう半分は決まって霧の溜まり続ける、猫の額ほどの狭隘なる高原地域が存在し、そこには代々、「霧中衆」と呼ばれる一団が独自の生活を営んでいたというものだ。

 

 

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 彼らは一様に鼻梁が高く、目がぱっちりと開いていて、それに何より皮膚の色が透けるほどに白かった。
 また、米のめしをあまり好まず、よしんば稲作をしたとしても売ってしまって銭に変え、自分達の食膳に上せることは滅多になかったそうである。


 これらの特徴は聞く者をして、ある種の漂流伝説を想起せずにはいられぬものだ。


 ただ、この「霧中衆」については大正年間までその存在がまことしやかに囁かれてはいるものの、例えば柳田国男のような、歴とした民俗学者が実地に赴き史料採集を行ったということがなく、つまりは実在を証明できない。


 今となっては口碑や伝承によってのみ朧な輪郭を投影し得る、半ば伝奇上の存在へと化してしまった。

 


 親不知の風波村に関しても、このあたりの事情は同一である。

 


 親不知といえば例の大雪崩があった、山肌がいきなり海面に向って切り落ちている、とてつもく険阻な道だが、この途中に僅か三戸だけ、他の村々からまったく隔絶された部落があった。
 それが風波だったのである。

 

 

Oyashirazu tenkendangai

Wikipediaより、親不知の天嶮断崖) 

 


 たった三戸きりといえど、彼らがここに居を構えたのはよほど昔であったらしく、周辺地域のどんな古老に訊ねてみても風波村が存在しない親不知の景色を見たことがない。
 この証言は昭和の初期に相馬御風が聞きこみを行って得たもので、ここから彼は風波をして、「いつの頃に出来た部落であるか、今では全くわからぬほどに古い歴史を持ってゐる(『人生行路』437頁)と結論している。


 一説によれば風波の先祖は親不知一帯を「狩り場」にしていた山賊で、ここを通る旅人を殺して所持品を奪うのを生業にしていたとか。
 しかしこの伝承の顛末は、ある時いつものように殺害した旅人が、その実親分の生き別れの娘であったというもので、昔話としてあまりにありきたりな筋書きであり、信憑性には疑問が残る。


 おそらくは、適当に後付けされた噺ではないか。


 相馬御風が実際にこの三戸の家を訪問してくれたなら、このあたりの事情もあるいはハッキリしていただろう。が、彼はついにそうしなかった。

 


 私はまだあの村の人に逢ったことはない。又あの村へわざわざ立ち寄って見たこともない。時にさうした好奇心に駆られては見るが、何といふことなしにそれを決行する気になれないのである。(同上、438頁)

 

 

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(相馬御風、昭和十年撮影)

 


 興味はある、しんしん・・・・だ。
 ところがいざ実行に移す段になると、なんとなく厭な心持がして後回しにしてしまう。
 このなんと・・・なく・・とは、あるいは本能からの警告だったか。

 

 風波は如何に人口が上下しようが、頑なに「三戸の村」であり続けたと云う。その数字に、彼らはなにかしらの意味を見出していたのだろうか。


 数多の謎を抱えたまま、風波村も歴史の中に消えてしまった。今となっては地名に痕跡を残すのみ。かつて三戸の家があったとされる場所には、何を慰めるものか、石地蔵が草に埋れて佇んでいる。

 

 

 

 

 


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