穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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春月による「自然愛」分析

 

 感傷の詩人・生田春月は自然愛の源を大きく二つに分けている。厭離の心と、人間憎悪だ。

 


 厭離の心は、人間憎悪の心では決してない。けれど、自然愛は、人間憎悪の反動である場合もある。例へば、バイロンの如きである。そして、西洋の詩人には、この方がむしろ多い位ではあるまいか。そして、その心はいかに自然に遁れようとも、厭離ではなくして、より多くの執着を残す。(『生田春月全集 第八巻』9頁)

 


 非常に的を射た観測と言わねばならない。
 捕鯨反対のためならテロ行為も辞さないグリーンピースや、事あるごとに熊を射つなと猟友会に噛み付いてヒステリカルにわめき散らす、一部愛護団体の連中に対して、常々感じていたいかがわしさの正体が、春月のこの一文に触れることで、鮮やかに暴露された気分であった。


 なるほど、人間憎悪の反動としての自然愛


 道理で連中の顔付きが、自然を愛しているはずだのに、ちっとも自然に溶けてゆかず、反対にますます醜悪な、般若面の如き鬼相を呈してゆくわけだ。


 有名どころでは手塚治虫の自然愛も、多分に人間憎悪の反動としてのケを帯びていると私は看做す。

 

 

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 (Wikipediaより、手塚治虫

 


『白縫』という短編が、その特徴をよく顕している。
 Wikipediaからあらすじを引用すると、

 


 伸二は学校の郷土研究で不知火を調べるために故郷を訪れたが、かつての砂浜は空港建設のために変わり果てた姿となっていた。伸二の兄は地元の顔役となり、開発事業に邁進していたが、そこに奇妙な少女が現れる。

 


 結局この「少女」は以前兄が狩りをしている時に見逃してやった雛鳥であり、自然からの復讐を告げるために遣わされた存在であり、開発途中の埋め立て地は大地震によって発生した大津波に呑まれて海の藻屑と消え去るのである。
 伸二の兄もこの波によって哀れ還らぬ人となり、最終的に再び水平線に浮かぶようになった不知火が見開きで描かれて、この短編の幕は下りる。


 空港建設予定地に「団結小屋」なるグロテスクな「砦」をおっ建て、機動隊員に向って盛んに火炎瓶を投げつけていた赤色学生連中は、さだめしこの短編に勇気づけられたことだろう。

 

 

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 自らをあしたのジョー矢吹丈に擬し、空港を以って「海外侵略のための空の玄関」と糾弾して憚らなかった彼らのことだ。まんざら的外れな空想でもあるまい。

 


 資本主義にとって交通網は動脈であり血管である。GNP大国になり上った日本帝国主義にとって、海外侵略のための空の交通網=国際空港を建設することは、その肥大化した巨体を支えるために不可欠となった。支配階級はこれを国利=国策というオブラートにくるんで、強引におしすすめてきた。そして、この空港建設は海外侵略のための空の玄関であるという、外に向けられた凶器であるとともに、地元住民に対して生活破壊や環境破壊をもたらす、内に向けての凶器でもある。

 


新左翼二十年史 叛乱の軌跡』と銘打たれた書籍からの抜粋だが、250ページにも満たないこの一冊を読み切るまでに、私は何度深刻な頭痛に襲われたかわからない。

 

 

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「国利をいうものは人民のみなごろしを厭わない」だのなんだのと、斯くも荒唐無稽な戯言が、最初から最後まで一貫して続くのである。
「電波」という言葉の意味を、本当に教えてくれたのはこの本だ。
 しかも苦笑してばかりいられないのは、当時の多くの青年が、本当に多くの青年が、この「戯言」を戯言と思わず、大真面目に真に受けて、国家転覆の熱情に燃え、全国各地至る処で闘争に精を出したということである。


 まさに狂気の時代であろう。


 その狂気の卸問屋たる共産党「漫画の神様」が親密な関係にあったことは、今日に至っては常識だ。


 手塚は『白縫』以外にも、軍用機地建設のため立ち退きを命ぜられた山村の一家があくまでこれに抵抗し、敗北寸前まで追い詰められるがそこで不思議な山崩れが起き、一家を除いて軍基地も兵隊たちも皆土砂に埋もれ消えてしまうといったような、これまたわかりやすい「自然からの復讐」物語を描いていた。

 


 だが、自然が、地球が、人間相手に復讐など企てるだろうか?
 この憎悪は自然の代弁などでなく、手塚自身の精神にこそ端を発するものではないか?

 


 子供の頃は無邪気に同調していられたが、年を経るにつれて、私は手塚の作品、その多くを楽しめなくなってしまった。


 今の私の心には、柴田ヨクサルエアマスターで語ったような、開き直った自然認識こそが快い。

 


 自然破壊だ何だと言っても
 地球の"実"の部分は超巨大でぶ厚いマントルです
 その超巨大なマントルの上のほんの ほ~んの薄皮の上に ぞろぞろと暮らしているのが私たち人間さん達です
 散々自然を破壊して戦争だ平和だ勝手に人間が絶滅したとしても
 薄皮の部分の出来事です 
 ほんの一ミリの出来事です
 人がいなくなろうと何がいなくなろうが
 地球は相変わらず元気に50億年も生きていく事でしょう
 言ってる事は当り前の事だけど
 たまにデカイ声で誰かが言ってもいいだろう
 心配ばっかすんな
 人間ってそうじゃないだろう
(『エアマスター』26巻)

 

 

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 生田春月は人間憎悪の反動としての自然愛を批判して、

 


 ――執着ならば、むしろ人間を愛するやうになりたい。人間もまた、自然の一部として抱擁し得る自然愛でありたいと思ふ。

 


 と、なにやらGガンダムを先取りしたようなことを述べている。


 人間の思想とは、進んでいるのか退っているのか、まるでわからない。

 

 

 

 

 


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