鹿という動物の実態を、奈良公園を闊歩するあの温順な姿を以ってその総てだと考えるならそれは大きな誤りだ。
特に牡鹿はそうである。発情期の牡鹿の獰猛さときたら話にならない。野郎同士で角突き合わせて殺しあうのはもちろんのこと、
黒川義太郎が園長を務めていた上野動物園でも、かつてそういう事件があった。
或る日閉園後に、事務所へ一人の巡査が来て今鹿が血だらけになって居るから、早く私に行って見ろと云ふのです。
何うしたのかと思ひながら行って見ると、牡鹿が一匹の牝鹿を突いて突いて突捲って、牝鹿は半死半生で、横腹から小腸が露出して居るのです。
漸くの事で牡鹿を追払って、牝鹿を助け出しはしたものの、とても
聞く所に依れば、山に居る時にも、往々鹿にはかう云ふ事が有るさうなのですが、山での時には逃げ場があるので、牝鹿が逃げぬいて仕舞ふさうです。(『動物談叢』268頁)
元々鹿は一夫多妻主義の、男性にとって実に有利な社会を築くが、ここまで来ると亭主関白を通り越して専制君主の域であろう。
牡鹿の角による突きの威力は大したもので、ときに猟犬までもが返り討ちに遭い、躰に大穴を空けられる。だから奈良公園では江戸時代の昔から、ほどよい時期に角を切り矯める行事があるのだ。
これがなければ興福寺の境内など、とうに血塗れ臓物塗れで腥風が吹きすさんでいたに相違ない。
角の発育と、牡鹿の気位の高さとは見事な相関関係にある。
春先になると古い角は自然に抜け落ち、そこから大体夏の終わりごろまでかけて、新角の発育を完了させる。発育中の角は「袋角」の名が示す通り皮膚に包まれており、中身の質は非常に柔い。迂闊にも注意を欠いて何処かにぶつけたりすると、「袋」は容易く破れて血を流し、ひどい場合は捻じくれて、本来あるべき形状とは遠く離れた畸形的発達を遂げてしまう。
当然、戦闘力の大幅な低下は免れない。
戦闘力が低下するということは、すなわち牝を巡っての闘争で一方的な敗北を喫するということだ。子孫を、自分の遺伝子を残せなくなる。野生動物にとって、これほどの恐怖はまたとない。
それゆえに、発展途上の角を持つ牡鹿は極めて温順な性質だ。争いを避け、事なかれ主義に徹し、ひたすら頭部を守ろうとする。発情期の彼らとは、まるで別のいきもののような観があろう。
ところが一旦角の完成を見るや否や、鹿どもはどんな人間の変節漢でも敵わないほど大胆にその性格を一変させる。
皮が剥げ、露になった白くたくましいその角を、鹿どもは更に地面や木の幹に擦りつけて研磨する。彼らが武器に懸ける想いときたら、斯くも念入りで凄まじい。
だからこそいざ
この凶器を除かぬ限り、到底人々の間に交わらせることなど叶うまい。
まったく発情期や産褥期といった性に関わる時節に突入した動物は、平素からは思いもよらない挙に出るものだ。
豹もまた、その顕著なる例である。昔、ドイツのハンブルク市で動物商を営んでいたカール・ハーゲンベックなる男性は、その商売上の理由から常に多数の猛獣を飼育しており、このためなまじっかな生物学者よりも余程彼らの生態に通じていた。
(Wikipediaより、カール・ハーゲンベック)
彼の発見したところによると、猫科の猛獣類が出産した場合には――特にそれが、初産の獣である場合――産褥を覗くのは絶対的に禁物である。何故というに、出産で神経が過敏になって居る母親は、これを攻撃の前兆と捉えて大いに狼狽え、我が子を隠そうと狂ったように焦燥するが、なにしろ狭い檻の中、とても隠すに処なく、ついには錯乱の極みに達して我が子を喰い殺してしまうからだ。
「子供を自分の体内に入れて守る」ために捕食するなど、『ドラッグ・オン・ドラグーン』のアリオーシュそのものではないか。
こうした悲劇は、現に日本に於いてもあった。黒川園長の上野動物園ではない。大阪にかつて存在した、香櫨園なる動物園に於いてである。
嘗て私は関西旅行の際、阪神鉄道の中間駅の傍にあった香櫨園と云ふ動物園を参観した。該動物園の豹が暗室の設けなき運動場に数頭の児を分娩したとき、参観人や園丁までが物珍しげに騒ぎ廻り、囲ひなどもしなかったので、其児等は忽ち母親の為に喰ひ尽されてしまった。其次の年に又その豹が分娩したのであったが、今度は懐胎の前兆も分り、形式的の隠れ場所も作られて、其中に分娩させたのであったが、第二回目の豹児が生れたと云ふので、係員に無断で沢山の人が代る代る無理な覗きやうをした為に、またぞろ二回目の児も喰ひ尽されてしまったと云ふことを園の保管者から聞いた(『動物談叢』260頁)
なんという民度の低さかと閉口する以外にない。
ハーゲンベックの論を頼まれもせぬのに実証したこの動物園は、経営悪化により僅か六年で閉園している。
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