昭和十二年八月某日、オホーツクの沖合で、一隻の日本漁船が拿捕された。
船は二代目おしょろ丸。函館高等水産学校の練習帆船として十年前に竣工されたものであり、その日も同校の生徒二十名を甲板に乗せ、蟹刺網の操業実習を行っているところであった。
(練習帆船おしょろ丸)
当然、武装など皆無そのもの。機関室の床をひっぺがしても、拳銃一つ出て来はすまい。
だから、突如出現したソヴィエトロシアの特務艦、オロスコイ号に猟犬の如く周囲を旋回されても。
それが不当な威嚇行為と重々承知しながらも、彼らはただ息を殺して事態が過ぎ去るのを待つしかなかった。
が、無力な者の祈りというのは、ほとんど踏み躙られるためにのみ存在している観すらあろう。
この場合も、そうだった。オロスコイ号はやがて威嚇に飽き足らなくなり、直接牙を突き立てるべく、おしょろ丸に飛びかかって来た。
端艇が下された。弾を充填したピストルを持った露助に取捲かれ、大垣船長はオロスコイに引致された。露助は傍若無人にも船内をくまなく捜索した。そこで一週間も露助の厳しい折檻を受けたのであった。此事は当時ラジオによって、全国に放送された。(岡本信男著『海を耕す』141頁)
(大垣船長)
――よりにもよって。
と、書いてしまって構うまい。よりにもよって「学生たちの練習船」を被害者にしたのがまずかった。これほど耳朶に響きやすいフレーズというのも珍しかろう。未来ある有意な若者は、いついつだとて国家の宝なのだから。
国民感情はただちに激発。
これに対して、ソ連は果たして恐れ入ったか? いいや否。更なる挑発を以って報いた。
ペトロパブロフスクの基地から爆撃機を発進せしめ、「カムサッカ東岸クロノトスキー岬沖合五浬の海上に、錨を入れて操業中の我が鮭鱒母船(太平洋漁業株式会社)信濃丸、笠戸丸、神武丸等の船上を、低空飛行して威嚇」してのけたのだから凄まじい(143頁)。
(Wikipediaより、ペトロパブロフスク、夜の港)
「赤魔」の「赤魔」と呼ばれる所以を、十分以上に見せつけてくれたものだろう。
現代に於いても日本の漁船は、度々ロシアに威圧され、場合によっては拿捕されている。
2006年など第31吉進丸が水晶島付近で銃撃を受け、乗組員一名が死亡する大惨事を見た。
つい一昨年の2019年にも歯舞群島付近でタコ漁をしていた五隻が拿捕され、罰金640万ルーブルを支払って漸く解放に至ったあたり、事態は何も変わっていない。
このあたりで我々は、永井柳太郎と双璧をなす雄弁家、鶴見祐輔の言葉を思い出さねばならないだろう。
綺麗なところだから問題になるんだ。天地の恩恵の満ちた土地だから、各国民族が争って入らうとするのだ。醜くい争は、いつも美しいものを中心として起るのだ。(昭和九年『死よりも強し』580頁)
これは確かに、真理の一端に触れている。
世界を回すは古今通じて力の論理。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」云々たらいう最高法規の前文は、所詮痴人の寝言に過ぎない。今後も北海をめぐっては、ロシアとの衝突が絶えないだろう。北方領土? 寸土たりとて手離すものか。ああいう民族の「良心」に期待する方が、むしろ狂気の沙汰なのだ。
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