穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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戦い続ける歓びを ―身体が闘争を求めた男、小酒井不木―

 

 

「闘争を喜ぶのは人間の本性であります。人間の筋肉や骨格の如きも、みな、闘争に役立つやうに作られて居ります。闘争のない所に人間はなく、又人間の進化もありません。
 闘争には、勝利と敗北が付随します。さうして、勝利は嬉しいものであり敗北は厭なものであります。然し、よく考へて見ますると、人間の喜ぶところのものは、勝利ではなくて闘争そのものであります、勝つことは嬉しいにちがひありませんけれど、勝った後は、すぐその勝利にいて、寂しい思ひを致します」


「ところが世の中には闘ふことに興味を持たず、ただ勝利をのみ希ふ人が少くはありません。それ等の人は闘争の興味を知らぬのでありまして、勿論、勝利の物足りなさを経験しないからであります。さうしてもとよりかやうな人は勝利を得ることが出来ません。それ故人は闘争そのことに興味を持たねばなりません。即ち受難を喜ぶ覚悟がなくてはなりません。
 闘争のための闘争、それで人間は快く暮して行くことが出来ると思ひます」

(『小酒井不木全集 第十五巻』85~86頁)

 


 杉村楚人冠『山中説法』によれば、昭和八年九月に実現した一高対三高の野球試合に際して、インタビューに答えたある選手が、


「これは学校と学校との真剣勝負であって、そこらのスポーツマンシップの名によって美化された軽はずみな試合とはわけが違う」


 と、大気焔をぶちあげたそうだ。


 楚人冠はこのことを、たいへん好意的な出来事として書いている。


 小酒井不木がもしこのセリフを聞いたとしても、やはり大喜びしただろう。天晴れ見事、向こう見ずな蛮勇こそ望ましけれ。若者とはこうであってこそ清々しい、と。


 もっとも不木はこのインタビューから四年前、昭和四年の四月一日に既にこの世を去っているため、聞ける道理もないのだが。

 

 

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(左の男性が小酒井不木

 


 死因は、急性肺炎だったという。
 二十五歳で発病してから十四年間、三十九歳のこの命日に至るまで、不木の日常は肺病との絶え間ない闘争の連続だった。


 病はついに彼の命を奪ったが、その猛々しい闘争心を掻き消すことは叶わなかった。

 いやむしろ、病状が悪化すればするほどに、不木の胸底からは「なにくそ」という青白い炎にも似た想いが湧いて、あくまでもこの病魔めを征服し屈服させてやらんとする鋼の意志が鍛冶たんやされた趣きすらある。


 彼がその苦しみの中から見出した「死の覚悟」に対する解釈は、一世紀を経た今日に至るも依然通用するものだ。

 


「死を覚悟する」といふことは何事につけても必要なことでありますが、死を覚悟するといふのは「死ぬ程の苦しみを覚悟してまでも、尚ほ且つ・・・・生きよう・・・・と思ふ心」をいふのでありまして、「どうせ死ぬにきまってゐる」と思ふのは死を覚悟するのでなくて死を希望するのでありますから、従って希望通りに死は参るのであります。(同上、6頁)

 


 冒頭の「世の中には闘ふことに興味を持たず、ただ勝利をのみ希ふ人が少くはありません」と併せて、なにやら現在放映中のジョジョの奇妙な冒険 Parte5 黄金の風を彷彿とさせる単語の羅列だ。時を吹っ飛ばして「結果」のみをこの世に残すキング・クリムゾンの能力は、小酒井不木「もとよりかやうな人は勝利を得ることが出来ません」と指摘した在りようそのものではないか。

 


 病弱者の中には、病に罹ったことそれ自身を、すでに世の中に敗北したものと考へて居るお目出度い人がある。そんな人は到底世の中に打ち勝つことも出来ねば、また病に打ち勝つことも出来ぬのである。
 思ふに慢性病に罹った時ほど、心を錬磨するに好都合な機会はないのである。自分の心を強くならしめることによって、如何に見事に病を退治することが出来るかを実見するに最も適当な時機である。(同上、77頁)

 


 小酒井不木の闘病観は、つまるところこの部分に尽きている。
 私はこれを「空元気」とか「虚しい強がり」とか見たくはないし、昭和四年四月一日の死を以って、不木が病に敗れたとも考えたくない。


 彼は最期まで立派に闘った漢であった。血反吐と共に吐き出された虹のような意気の数々は、未だに色褪せることなく仰ぎ見る者たちをして勇奮措く能わざらしめている。
 男子の本懐、その体現といっていい。

 

 

戦いの中にしか、私の存在する場所はない。

好きに生き、理不尽に死ぬ。それが私だ、肉体の有無ではない。

戦いはいい。私には、それが必要なんだ。

 


『ACVD』ラストミッションに於けるこのセリフが、今改めて思い出される。 


 涯てしない闘争の渦中にあってなお、否、闘いずくめであればこそ、不木の心は爽やかだったに違いないのだ。

 

 

 

 

 

 
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