夢を見た。
山の中の夢である。
ふと気が付けば私は独り登山に勤しんでおり、強烈な斜度の鎖場を、滑落の恐怖と闘いながらひいこら喘いで攻めていた。
やっとの思いでそこを越えると、千古斧鉞を加えざる老樹の緑のその中に、ひどく不似合いなものがある。
白く明るいなまこ壁が目に鮮やかな、堂々たる武家屋敷である。
鋲が打たれた、これまた立派な門の横の看板は、しかしながら主人の正気を疑わずにはいられぬものだ。
「なめくじ博物館」と、そう記されているのである。
金を貰ってもこんなところに入りたくはない。ないが、残念なことにここを潜らねば頂上を踏むことは叶わぬ様子。
ゲームに於ける強制イベントのようなものだ。諦めて入館することにした。
そこで見たものの詳細を、ここに書き並べたくはない。書いてる途中で、おそらく私の精神力は限界に達する。筆を投げ出すこと請け負いである。
ただ、起床してからしばらく経って、思い出したことがある。そういえば私の故郷の山梨県はその地誌に、地方病の大猖獗という陰惨な過去を持っていた。
言わずと知れた、日本住血吸虫のことである。
ミヤイリガイというごくごく小さな巻貝を中間宿主として発育するこの寄生虫はかつて甲府盆地で猛威をふるい、数えきれないほどの住民の体内に潜り込んではその血管を卵だらけにしたものだ。
卵はやがて門脈をはじめ各所の血管を詰まらせる。当然、宿主は無事ではいられない。栄養障害、消化器障害を来し、手足は棒の如く痩せ細る。そのくせ腹ばかりが腹水により異常なばかりに膨張し、ちょうど地獄絵巻の餓鬼そのものの姿を呈する。
(Wikipediaより、この地方病の重症化患者)
最悪なのは、この寄生虫が皮膚からでも易々と人体に侵入して来ることだ。
ミヤイリガイの棲息している水場に素足で踏み込もうものならば、ほぼ確実に入り込まれる。
そして当時、すなわち山梨がまだ「果樹王国」でなかった頃は、甲府盆地一帯でミヤイリガイのいない水場を探す方が難しい――否、いっそ不可能事に等しいといっても過言ではない有様だった。
なにしろミヤイリガイ一合につき五十銭という賞金が「官」によってかけられて、大正六年から八年かけてのべ三十八石五斗――米俵にして九十六俵――もの貝が集められたにも拘らず、総体としては一向に減る気配がなかったと記録にあるから馬鹿げていよう。
私は山梨県立博物館で、パネル上に固定されたミヤイリガイの実物を見た。
あんな小さなものを、いったい何万匹集めれば米俵一つぶんに届くのか。下手をすると何十万が要るかもしれない。しかもそれを九十六倍してなお、総体から俯瞰すれば雀の涙というのだから、完全に想像の埒外である。
寄生虫のみならず、その中間宿主まで桁外れの繁殖力とはなんたる悪夢か。
七十年以上に亘る悪戦苦闘の歴史の果てに、今でこそミヤイリガイは撲滅されて、日本住血吸虫も山梨県から姿を消したが、私の親世代には未だに当時の恐怖が色濃く残っていたらしく、命が惜しけりゃ水場に入るなと、平成生まれの私でさえも口を酸っぱくして言い聞かされたものである。
こういう梅雨時、カタツムリに触ろうものなら、それはもう入念に石鹸で手を洗わせられた。
そうした経験の積み重ねが、自然と私の精神の内部に軟体動物全般に対する
ミームは受け継がれたといってよかろう。教育の効果を実感している。
連日の雨が、記憶のそのあたりを刺激したのか。いやはや、ひでえ悪夢を見たものだ。

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