杉村楚人冠とイギリス新聞界との関わりは深い。
なにせこの男、イギリス新聞記者協会の在外会員という肩書まで持っているのだ。
だから日本に居ながらも英国事情に巨細に通じ、彼の地のマスコミ界隈に於いてある種の廓清運動が始まった時も、その報せはちゃんと彼の耳に届いていた。
提議したのは、『オブザーバー』紙のアーウィンという記者らしい。
彼は近頃新聞紙の記事が個人のプライベートな領域に立ち入り過ぎるきらいがあると告発し、これが議会で問題視されたり、一般大衆からの突き上げを喰らうより先に、自分達新聞記者側で積極的に統制を図ってゆくべきだと発言した。
予防的措置を講じよと言うわけである。
以前触れた、下村海南の台湾自治推進論にも気脈を通じるものだろう。
その「個人のプライベートな領域に立ち入り過ぎ」た特に著しい例として、彼は二つの事件を取り上げた。
一つは、ナチスの台頭により身の危険を感じ取り、ドイツから脱出してイギリスに逃れていたアインシュタイン――彼の潜伏場所を暴き立て、無遠慮に会見を申しこもうとした記者があったことである。
命を狙われ、神経過敏になっているであろう彼に対してなんということをするのか。
更に言えば、その動きをナチの密偵に探知され、結果アインシュタインが死体になって転がる事態にでも到ったならば、いったいどう責任をとる心算だったのか、というのがアーウィン氏の糾弾したところであった。
杞憂とは呼べまい。特にTBSビデオ問題によって坂本堤弁護士一家殺害事件を招いてしまった過去を持つ、我々日本国民としては。
もう一つは、リットン卿――そう、国連の命によって満州事変や満州国を調査した、「リットン調査団」の彼である――が飛行機事故でその子息を亡くした際に、「相当名声のある某新聞が見舞の名義で記者を派して、その『意見』を求めしめた(『山中説法』75頁)」件である。
傷口に粗塩を塗り込む行為といっていい。
子を失って哀に沈んでゐる一家の中へ、どんな意見を求めんとするのであるか、こんなことが度重なれば、今に元気のいいのが出て来て「おい、お前の倅が死んださうな、何か言ひたい事があるならいってくれ、成るべく簡単にな」などといふ奴が出て来ぬとも限らない(同上)
アーウィンが慨嘆と共に吐き出したこの予測は、現代日本に於いて完璧に実現したことを、我々はまざまざと知ることが出来る。
いや、ひょっとすると完璧以上かもしれない。アーウィンが予測したのはあくまで子を失った親に対する追い打ちだが、日本の大手マスメディアは平然と、親を失った子の心でも容赦なく抉ってのけるのだから。
「イギリスにも昔新聞記者が新聞記者である時代があった。それが二三年前から保険の勧誘員になった。今日では旅商人か
こう皮肉って締めくくられたアーウィン氏の提議に対し、英国記者協会は満堂の拍手を送ったという。彼らの廓清運動はこのようにして始まった。
しかしながら斯くの如きイギリスメディアも、1997年8月31日、結果的にといえどダイアナ妃を死に至らしめるというとんでもない不祥事を引き起こしている。
これはもう、マスコミというものの避け難い体質と見るべきか。惨なるかな。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓