裏面に杉山茂丸の策動があったとされる事件・政変の類はまったく枚挙にいとまがないが、わけても特に大規模であり有名なのは、やはり児玉源太郎・桂太郎と手を組んで、日本の前途を、やがて対露戦争へと至らしめるべく導いてのけた政治劇の一幕だろう。
満洲の野を、或いは日本近海を舞台に十数万の生霊を散華せしめ、大日本帝国の国際的地位を飛躍的に向上させたあの戦争は、見方によっては杉山の手で惹き起こされたと言えるのだ。
そのことは彼の息子であり、日本三大奇書の一ツに数えられる『ドグラ・マグラ』を世に送り出した稀代の幻想怪奇小説家、夢野久作が『近世快人伝』の中で、
彼は現代に於ける最高の宣伝上手である。彼に説明させると日清日露の両戦争の裡面の消息が手に取るごとくわかると同時に、その両戦役が、彼の指先の加減一つで火蓋を切られた事が首肯されて来る。世人はだから彼を綽名して法螺丸という。しかし一旦、彼に接して、彼の生活に深入りしてみると、その両戦役前後に於ける朝野の巨頭連は皆、彼の深交があった事がわかる。事ある毎に彼に呼び付けられて、お説教を喰って引退っていた事が、事実上に証明されて来る。そこで、イヨイヨホントウに心の底から驚いて、彼に何等かの御利益を祈願すべく、お賽銭を懐にして参詣して来る実業家が何人居るかわからない。そうして彼が絶対にお賽銭を取らない神様である事がわかるにつれてイヨイヨ崇拝敬慕の念を高める事になって来る。(『夢野久作全集 第7巻』20頁)
と書き記した通りである。
昭和五年に戦記名著刊行會から発行された『熱血秘史 戦記名著集9巻』のため、杉山が特に書き下ろした『日露開戦直前政界秘話』の内容は、まさにこの「参詣して来る実業家」たちに杉山が聞かせてやった回顧談そのものであるに違いない。
一読した私もまた、久作の語るこの実業家たちとそっくりな感慨を抱いたからだ。
発端は明治三十一年、第三次伊藤内閣の総辞職にまで遡る。このとき杉山茂丸は暢気倶楽部などを通じて児玉源太郎と誼を通じ、秘密結社の如きものを立ち上げた。
その結社の大綱は、
一、どうしても日本は露西亜と戦争をせねばならぬこと、露西亜を
一、それがためには国論を統一させねばならぬ、国論を統一させるためには、今の小政派分立を纏めて政界の立て直しをやらねばならぬこと。
一、その大政党組織には、どうしても伊藤公を主とせねばならぬこと。
一、伊藤公の大政党組織に対して、若し山縣公が反対されるやうであったら、元老といへども容赦なく引きずり倒すこと。
堂々たる挙国一致構想といっていい。
弱冠二十四歳の下村海南が期待していた洋行を台無しにされ、逓信省の一角で不平不満の塊と化していた一方で、後に彼が心底畏敬するに至る杉山が、こんなことを考え策動していたと思うとなにやら戯画的ですらあって、ひどく愉快になってくる。
詳しい説明は省くが、その後明治三十三年までの二年間にかけて杉山は、実の息子から「現代に於ける最高の宣伝上手」と評された敏腕ぶりを遺憾なく発揮し、第四次伊藤内閣成立の、影の立役者としてはたらいた。
日本人の通弊として、宣伝と聞くとともすれば、なにやらひどくいかがわしい、卑しい行為であるかのような感を起こすが、これはとんでもない間違いである。
迷妄とすらいっていい。
アイビー・リーがかつて喝破した如く、宣伝とは神聖行為にむしろ近い。
「如何に大人物であっても、如何に有用な事業であっても、如何に優良な商品であっても、これを天下に知らしめなければ、その当事者の損害ばかりでなく、一般人類の失うところこれに過ぎたるはない。処世に於いても、商売に於いても、事業に於いても、目的が正しいものであるならば、その宣伝につとむるは一つの義務ですらあるのだ」
そう悟り、リーは広告会社を興すことを決意した。
結果その名はパブリック・リレーションズの創始者として、一世紀を経た今日まで色褪せることなく伝わっている。
(Wikipediaより、アイビー・リー)
杉山茂丸もまた、正しいと信じた目的のためなら手段を選ばず、どんなにえげつない権謀術数でも敢えて弄する、そういう意味ではほとんど日本人離れした、マキャベリズムの権化であった。
「玄洋社一流の真正直に国粋的なイデオロギーでは駄目だ。将来の日本は毛唐と同じような唯物功利主義一点張りの社会を現出するにきまっている。そうした血も涙も無い惨毒そのもののような社会の思潮に、在来の仁義道徳『正直の頭に神宿る』式のイデオロギーで対抗して行こうとするのは、西洋流の化学薬品に漢法の振出し薬を以て対抗して行くようなものだ。その無敵の唯物功利道徳に対して、それ以上の権謀術数と、それ以上の惨毒な怪線を放射して、その惨毒を克服して行けるものは天下に俺一人しか居ない筈だ。だから俺は、俺一人で……ホントウに俺一人で闘って行かねばならぬ。俺みたいな人間はほかに居る筈がないと同時に、俺みたいな真似は他人にさせてはならないのだ。だから俺は、どこまでも……どこまでも俺一人で行くのだ」
彼は若いうちに、そう悟り切ってしまったらしい。そうして今日までもこうした悟りを以て生涯を一貫して行く覚悟らしく見える。(『夢野久作全集 第7巻』20頁)
こういう人物にとって「宣伝上手」とは、明らかな褒め言葉に属するであろう。
杉山茂丸という宣伝上手が散々に骨を折った甲斐あって、明治三十三年十月十九日、第四次伊藤内閣は見事成立の日の目を見た。
記念すべき、政友会の第一次内閣である。
これでいよいよ自分と児玉で交わした盟約、その本懐が遂げられると拳を固めた杉山だったが、達成感はそう長持ちしなかった。
内閣成立から少しして、伊藤博文と面会し、世界の趨勢を述べ、日露戦争が不可避であること、否、むしろ進んでロシアを討ちに行かなければ帝国の存立が危うくなるという例の持論を開陳し、力説した杉山は、しかしまるで想定外の反撃に遭う。
「君は日露戦争などを夢見てはいかん。それは三国干渉のこともあり、又露西亜の東方政策、殊に満洲朝鮮に手を伸ばして、日本を圧迫し、脅威するのを見ては、ジッとしてゐられないやうな気がするのも決して無理ではないと思ふけれど、これからの外交は
彼が対露戦争の主軸として期待をかけた博文は、実のところ親露主義者に他ならず、ましてや国家の命運を
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