戦前に活躍した名ジャーナリスト、杉村楚人冠の随筆集『へちまのかは』の巻頭には、
加藤清正公に此の書をささぐ
と書いてある。
これは杉村の家に代々伝わる、「お家伝説」に依るものだ。
楚人冠自身の語るところに依れば、彼の祖先で宇右衛門某なる侍が居たそうなのだが、この男はその昔、福島正則に仕えていた。ところがある日、この宇右衛門某が主命に逆らう事件を起こし、ために正則の激怒を買い、刀を抜いて詰め寄られる事態に至る。
癇癖の強い正則のことだ。この光景はなんら不自然なものではない。
傾注すべきはここで某が見せた度胸である。彼は泰然として退かず、それどころか胸を開いて存分にその刃を加えられよと啖呵を切ってのけたのだ。
その意気に感じ入ったのが、偶々この場に居合わせた加藤清正に他ならなかった。
清正、両者の間に割って入って正則の剣幕をなだめると、辞去する時にはもう、某をみずからの家来として扈従させてしまっている。
共に秀吉の縁者であり、同じ台所のめしを喰い、肩を並べて戦場を馳駆すること数えきれない清正と正則の仲である。彼らの間では、かくも無造作に侍の身柄がやりとりされた。
その後、某は清正の家中で馬廻番頭に任ぜられ、秀吉が唐入りを敢行した際には主君とともに玄界灘を越えている。
各所で明軍を討ち破りつつ朝鮮半島を北上していたある日、清正一行は大河に出くわす。
向こう岸が霞んで見える幅といい、水の暗さから推し量れる深さといい、山岳だらけの日本国ではまずお目にかかるのは不可能な、広闊な大陸の情景に如何にも相応しき河である。
とてものこと、騎馬や徒歩では渡れまい。
そこで進み出たのが某だった。この男、水練には心得がござると口上して河に身を入れ、音もなく器用に水を掻いて、そのまま向こうに浮かんでいた明人船へとたどり着くと、あれよあれと言う間にこれをぶんどり、一行の渡河の便をつけてしまった。
その後も様々な武功を重ねるも、ついに朝鮮半島にて戦死。その死に様も、家名を汚すことのない実に立派なものだったと云う。
某以来、杉村の家が維新まで続き、自分が今こうして偉そうに本を出せるのも、翻って考えればあのとき清正公が庇ってくれたお蔭である――と。楚人冠は自身の「お家伝説」を、そのような調子で結んでいる。
彼はこの伝説を、幼少のみぎりから説き聞かされて成長したに違いない。
当然、気宇壮大な男になる。
先祖が偉大であったなら、その血を受け継ぐこの俺だって偉大な漢として名を遺せぬはずがないであろう、といった理屈だ。
それゆえに、二十代の楚人冠が書いた文章を眺めてみると、如何にも若々しい気負い立ちが横溢していて快い。
横町の芋屋に至らんとするに、必ず先づ其の道を尋ねて進む。況や生より死に至る五十年の行程、豈に道の求むべきものなくして可ならんや。飲食使用の外に一物を知らず、酔生夢死遂に命を終るが如きは、是れ誠に
上記の文章は明治三十一年一月に発表されたものだから、楚人冠二十五歳の時のものだろう。
人として男としてこの世に生まれてきた以上、何か大きな事をして、自分の名前を歴史に刻み付けてからでなければ到底死にきれるものではない。実に結構、男子たるものこれぐらい昂然たる意気を養わねばならぬ。
が、世に何の志も抱かず、めしを喰うことと排泄することさえ満足にやれれば、それだけでもう能事足れりとする輩は実に馬鹿であり野郎であり、重さ六〇キロのハンマーで三〇回その
滅多打ちもいいところだ。日々を平穏に過ごすことだけを念願している一部ネット小説の主人公など、楚人冠の手にかかれば片端から整形外科送りにされるとみて相違ない。
もっとも楚人冠自身、名前の売れた中年以降にそれまでの著作物を纏めた随筆集を出版しようとなった際には、こうした若かりし日の言行が今更ながらに面映ゆくてやりきれず、いっそ削ろうかとさえ思案している。
で、その相談を持ちかけたときの友人とのやりとりが面白い。
これを友だちに相談したら、今のお前が二十二三の時よりも賢くなってゐると思ってゐるのかとやられた。その時から見て今のお前がどれほど進んだつもりでゐるのだとやられた。若い時の手柄談はむしろかはいい所があるが、若い時の事をむやみやたらにはづかしがるのは、今のわが身がもっとえらいぞといふうぬぼれに過ぎないとやられた。
なるほどさういはれて見ると、昔も今も一向相かはらぬ自分が、今更えらさうにへりくだるには当らぬと悟った。削らば一切を削り去らざるべからざるを思ひて、あながちに面皮を厚うして、一字一句も改めずにこの書を世に問ふに至った所以はここに在る。(同上、序文)
この男にしてこの友あり。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。
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