穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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禁じ得ざるもの

 

 杉村楚人冠が当時にあって如何に柔軟かつ先進的な考えの持ち主だったかは、明治四十年十二月十五日、上宮学院で行った演説ひとつを見てもわかる。

 


 無分別な若い男女が相愛して、のぼせ上がって居る所へ親父が水を入れる。之を日本語で「生木を裂く」と申します。生木を裂かれた男女は、ヤケを起こして駆落をするか情死をする。いっそ初から棄てておけば、此の取り上せた両個の男女は、いつしか目がさめて来て、無事に夫婦の関係を続けるか、又は双方納得の上で別れるものであります。猥褻の書画を禁ずるのも、畢竟生木を裂くやうなものではないかと、私は思ふのであります。

 


 流石、本願寺文学寮――現在の龍谷大学の前身に相当――の舎監に任ぜられていの一番にやったのが、「門限の廃止」だった楚人冠らしい物言いである。
 楚人冠は何事につけ、過度な規制を「逆効果」だと批判してやまない男であった。

 


 隠すと見たくなり、止められるとやって見たくなるのは人情で、禁じて禁じ尽し得ざることを禁ぜんとするのは、徒に他の方面に、それ よりも一層有害有毒なる発達をさせるものであります。日本に新聞紙の発行停止といふ制度のあった時、如何に巧妙なる陰険な一種の修辞法が発達したかといふことを考へ合せても、此の辺の消息は解せられると信じて居ります。

 


 禁じられれば禁じられるほど、むしろこれに対する興味が倍加する――。
 こういう心理は確かにある。
 そして衝動が満足されねば精神はますます屈曲し、畸形的変化を遂げるものだ。


 目下、正気とは思えないほど馬鹿馬鹿しい規制をあくまで強引に推し進めんとしているソニー短智漢たんちかんな方々には、ぜひとも楚人冠のこの演説をよく噛み締めていただきたい。
 滋養分が滲み出して、欠けた智能を少しは補ってくれるだろう。


 ソニーレイなぞ気狂い沙汰だ。

 

 

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