五月七日、地球の軌道が緑色の大流星群のなかを通過した。ところがその翌朝、流星を目撃した地球上の人間はすべて視力を破壊されて
ジョン・ウィンダム著・井上勇訳、創元推理文庫出版『トリフィド時代』巻頭に掲げられたあらすじである。
私はこの本を、神保町古書店『@ワンダー』で購入した。
この小説の序盤では、
この展開を「大袈裟に過ぎる」と受け取る方もいるらしい。が、私は無理からぬことと考える。というのも私自身、五感の一つを失った経験があるからだ。
二・三年前、ちょっとした不注意から風邪をこじらせ、38℃台の熱が一週間近くに渡って続いた後のことである。私の舌は、突如としてその機能を失った。
何を喰っても味がしなくなったのである。生来ひどい鼻炎持ちの私だが、鼻が詰まっているわけでもなしに味覚が失われるというのは初めてのこと。塩を舐めたり醤油を飲んだり舌をライトで照らしながら鏡で観察してみたりと、狼狽のあまり多くの無様を演じたものだ。
聞けば、高熱を伴う風邪の後にはままこうした後遺症が見られると云う。
特効薬的なモノは無く、安静にして自然治癒を待つほかないと。
この災難が自分一人の身の上に降りかかったものでなく、過去にいくらでも前例のある症状だと知ることでいくぶんか気持ちは楽になったが――まこと、人間にとって道連れほど悦ばしきものはない。フランス革命で断頭台の露と消えたルイ十六世が、獄中時代、やはり清教徒革命によって処刑されたチャールズ一世の運命に心の慰安を見出したという俗説は、真偽はどうあれ十分な説得力を有するものだ――それでもやはり、食事の愉しみが失われるというのは辛かった。
夜中、布団に入って暗い天井を見詰めていると、もしこのまま一生味覚が戻らなかったらどうしようとつい絶望的な想いに駆られ、わけもわからず絶叫したくなったことを憶えている。
もっとも、この心配は杞憂であった。
およそ三日で舌は機能を取り戻し、私は砂か綿でも噛むかの如き灰色の日々から脱け出すことが出来たのだ。健康の有難味を、しみじみと知った。
斯くの如く、味覚に於いてすら人の心は甚大な動揺を来すのだ。
いわんや情報入力の八割を担うと俗に云われる、視覚が失われた場合に於いてをや。錯乱のあまりみずから命を絶つ程度、自然な反応と言えるだろう。
このような文明崩壊のパターンも有り得るのかと、『トリフィド時代』には感心させられる場面が多い。
随所にちりばめられたイギリス人らしいブラックジョークの数々も、読者を飽きさせない良質なスパイスとして機能している。ポストアポカリプス好きなら是非にと、自信を持って薦められる一冊だ。
トリフィド時代 (食人植物の恐怖)【新訳版】 (創元SF文庫)
- 作者: ジョン・ウィンダム,中村融
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2018/07/30
- メディア: 文庫
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