ぐずついた天気だ。
雨は降ったり止んだりを繰り返している。
しかし天から落ちてくるのが水滴ならばまだマシだろう。去る五月四日、山梨では広い範囲で氷が降った。
雹である。
それもかなり大粒の。
以来同様の現象は断続的に発生し、つい一昨日にも激しく降って、ために今年の収穫はどうなることかわからないと郷里の知人が落胆も露に報せてくれた。
痛ましい限りである。
本当に本当に、胸の痛む話である。
古くより、農家は一生の間に五十回の収穫をする人は稀であると云われてきた。
一年に一度しか収穫がないのだから、二十歳から農業に従事したとすれば、七十歳まで働いて、漸く五十回の収入を挙げるに過ぎない。もし一回でもやり損なった場合は、その失敗は生涯付き纏って離れぬのである。
ましてや江戸や明治のように、ビニールハウスだの何だのもなく、且つ平均寿命も短かった時代に於いて、その一度の失敗が如何に重いか――想像するに難はない。
だから百姓の性格はしぜんと保守的傾向が強くなる。投機を避け、安全率を第一として、君子危うきに近寄らずを金科玉条として掲げ出す。変革を呪い、新技術やそれを利用した製品には好奇心より嫌悪感が先駆ける。この嫌悪は、恐怖に裏打ちされているだけあって非常に根深い。
こうした保守への偏りは、他ならぬ私自身の中にもある。十年前に買ったiPod classicを後生大事に抱え込み、未だに使い続けているあたり、いい証拠となるだろう。
私は断捨離が出来ない男だ。
勧められても即座に反感が頭をもたげ、正倉院に収められていた品々だって本をただせば帳面のきれっぱしだの何だのと、当時に於いてはガラクタ以外のなにものでもなかった代物が殊の外多く含まれていて、しかもそれらが今日では立派な国宝にまでなっている、俺の所持品だっていつかは意外な価値を生じさせぬとどうして言える、捨てんぞ、俺は断じて捨てんと屁理屈を捏ねて反論せずにはいられない。
屁理屈だと重々承知しておきながら、どうしてもそれをやめられないのだ。己の裡に流れる農民の血を実感するのは得てしてこういう時である。
百姓の有する、こうした意固地な保守性は、戦前農業改革を唱えた多くの人士を苦しめた。彼らが如何に新農法を考案し、実験畑でその有効性を証明しようと当の農民達がそれに倣おうとしないのだ。
実験畑といっても、何か特殊な施設の敷地内にあつらえた代物ではない。地主と交渉して、小作人が耕しているすぐ傍の土地を使わせてもらった例もある。
自分の畑と比べて新手法で栽培された作物が、如何に青々として豊かに実るか、その一部始終をまざまざと実見させられたにも拘らず、やはり百姓達は粗末な実りしか期待できない旧来の手法の中に閉じ籠り、頑として踏み出そうとしなかった。
百姓の宿痾といっていい。こうした特性を見事に抉り出したのが、長塚節の『土』や真山青果の『南小泉村』であったろう。
夏目漱石は『土』を評して、
「ただ土の上に生み付けられて、土と共に成長した蛆同様に憐れなる百姓の生活である」
「彼等の獣類に近き、恐るべく困憊を極めた生活を、……彼等の下卑で、浅薄で、迷信が強くて、無邪気で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等の想像にさえ上りがたいところを、ありありと眼に映るように描写したのが『土』である」
百姓ほどみじめなものは無い、取分け奥州の小百姓はそれが酷い、襤褸を着て
とやってのけた。
これはもう、誹謗中傷以外のなにものでもない。今こんなことを書いたなら、たちどころに何処かから訴訟を起こされるに決まっている。
しかしながら山口連続放火殺人事件や、医者追い出しで有名な秋田の上小阿仁村を見る限り、まんざら謂れもなき批難であるとも思えない。私自身、読んでいて「これこれ」と頷く描写が多かった。
もし、地方に移住を考えている方が居るのなら、その前に是非この二冊に目を通すのをお勧めしよう。心構えの形成に、きっと役立つに違いないから。
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