男を男たらしめるその部位を、外科的手術によって抉り取る。聞くだに血の凍るような話ではないか。
しかしながらこのおそるべき沙汰事が、歴とした刑罰としておおっぴらに社会に通用していた時代があった。中世の暗黒時代ではない。二十世紀の、それも民主主義の総本山たるアメリカ合衆国に於いてである。
発端は1907年のインディアナ州。「社会改良上の已むを得ざる措置」として世界初の断種法が制定されると、そのわずか二年後には同様の法律がカリフォルニア議会を通過しており、最終的には1937年までに32もの州で重犯罪者の睾丸を切り取るようになったというから驚きだ。
のべいくつのタマが刈られたことやら、ちょっと想像を絶している。
むろん、当時の社会の中から反対の声を上げる者とているにはいた。特にキリスト教系からの批難は強く、「このような残虐な措置は天意にそむき人道を無視するものである」と、執拗に訴えたとされている。
だが、大多数のアメリカ国民にとっては、むしろこうした批難こそ世迷言に聞こえたらしい。
考えてもみるがいい。既に何度も刑務所にぶち込まれたにも拘らず、娑婆に出るなりちっとも懲りた気色なく、またぞろ強盗・強姦・殺人といった重度の犯罪へと走る輩がどれほど多いか。
天意にそむくと云うならば、この連中こそ真っ先に天意にそむいているではないか。そむくどころか棄て去って、便器の中に放り込み、汚物を浴びせかけているのだ。
そのような、到底救済の見込みなき社会の毒物を相手に、だ。どうして我々善良なる国民が、絶えざる不安と危惧の念を強いられてまで、殊更に人道を以って彼らを厚遇してやらねばならないのか。そんな理由が、必要が、一体全体何処にある――?
なるほど、至極真っ当な意見であろう。
現代日本でも似たような論説をふるう方は極めて多い。
日本といえばこの断種法の噂は海を隔てた当時の大日本帝国にも伝わって、盛んな議論を引き起こしている。
「面白え」
と喜色もあらわに膝を打ち、
「いっそ、男の睾丸と女の卵巣とをアルコール漬けの瓶詰にして、姓名と罪状、その動機を書き記し、博覧会を開いちゃどうだい。痛快じゃないか。社会の風教に対する一種の懲罰にもなるだろう」
と、実にこの男らしい型破りな提案を持ち出している。
実際問題、抑止力としてとらえた場合、あるいは死刑よりも有効かもしれないのだ、去勢という処置は。――
少なくとも私なんぞは、女子高生コンクリート詰め殺人事件をやらかした犯人どもは、一人残らず
JT女性社員逆恨み殺人事件もそうだ。こちらはコンクリ事件に比べて世間的な知名度がやや低いため、まず概要を述べておく。
1997年4月18日、
この男、被害者を強姦した際に、
「強姦されたとばらされたくなければ10万円払え。警察に言うとどんな目に遭うかもしれないぞ」
と脅迫しており、むろん被害者が従うはずもなく警察に通報、そうとも知らず金の受け渡し場所にのこのこ現れ、あえなく御用となった救いようのない間抜けなのだが、それだけに人間社会の道理というのが通じない。
誰がどう見ても脅迫以外のなにものでもないこの文句が、持田の脳内にあってのみ、何か神聖にして不可侵なる契約とでも認識されていたらしく、それを一方的に反故にした被害女性を「裏切者」と強く憎み、「出所したら必ず殺してやる」と復讐を決意したのだという。
手の施しようがないとは、この男の為にあるような言葉だ。
その憎悪は七年間の刑務所暮らしでも消えることなく、出所からわずか二ヶ月後、上記の凶行に及んだのである。
第一審、東京地裁の下した判決は無期懲役。
が、続く二審で事態は急転直下する。
東京高裁は一審が下した無期懲役の判決を破棄、「利欲目的ではないとはいえ、本件の動機は理不尽・身勝手の極みであり、被害者の申告にも悪影響を与えかねない。被害者が一人でも死刑がやむを得ない場合はあり、極刑をもって臨むのはやむを得ない」との理由に基き、死刑宣告を下したのである。
持田は上告するも、最高裁はこれを棄却。2008年2月1日、漸く刑が執行された。
持田孝はこの事件以前にも、殺人だの窃盗だのと犯罪行為を重ねてきた男である。
そのいずれかの時点でタマを切り落として血の気を削いでおいた方が、彼にとっても社会にとってもあるいは幸福だったろう。
これは真面目に考える価値を有する問題だ。
ネット上では折に触れて死刑の是非を問う議論が白熱するが、死刑を廃止するならせめて、代わりに去勢ぐらいは認めてくれねばとても
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