穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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渋沢親子とメトロポール

 

 年々開かれる国際労働総会。その第二十回目に渋沢正雄しぶさわまさおが日本の雇用者代表として出席したときのことである。


 国際労働総会を主催する国際労働機関ILO1920年の夏以降、本部をジュネーブに置いている。当然総会の開催地も此処であり、第二十回目ともなれば、各国代表が宿泊するホテルにも慣例が生まれ、規則化され、某国はここ、何国はそこと常に決められたものとなっていた。

 

 

Flag of ILO

 


 日本代表の場合、それはメトロポールというレマン湖に面したホテルであって、渋沢正雄もむろんこの屋根の下に入ったのである。で、ちょっとロビーで空いた時間を潰して居ると、ふいに話しかけてきた者がある。


「もし」


 その恰好、たたずまい、明らかにホテル側の関係者だと一目で知れた。
 事実、この人物はメトロポールの支配人に他ならなかった。その支配人が慇懃そのものの物腰で、


「貴方は渋沢栄一氏とどういう関係ですか」


 と訊ねるのである。正雄がつい、


「いや私の親爺だが」


 と反射的に答えると、支配人はぱっと、さてこそは・・・・・といわんばかりの顔になり、昔話を始めてくれた。曰く、


「古い話ですが、1866年頃に日本から初めてスイスに外遊した観光客の一団がありました。それは徳川民部公子という人の一行で、その中に渋沢栄一という人があって、日本人としてこの宿に初めて泊った人なのです」


 などと言ったものだから、運命の巡り合わせの玄妙さとはこのことか。衣冠束帯姿の徳川民部公子昭武あきたけと、腰に大小をぶち込んだ父親とが泊まったホテルに、七十年の時を経て、仮にも一国の代表となった自分が居る。この構図に、さしもの渋沢正雄も因縁めいたものを感じずにはいられなかった。


 事実、明治四年に物された、渋沢栄一翁自身の筆跡による『航西日記』をめくっても、


 ジュネーヴに遊んで駅に着く。本陣はいづくなるぞと問ふたるに、メトロポールと答へしかば、その処へ宿りたり


 との記述が存在している。
 このことを、翁の三男たる正雄氏は帰国後に確かめ、改めて、


 ――不思議なこともあるものだ。


 と、しみじみ独りごちたと云う。

 

 


 なお、栄一翁自身は人生初のこの洋行を振り返って、


「あのころは確かまだスエズの運河は出来ていなかったと思うが、あの辺で初めて汽車に乗った。その時、一行の連中がオレンジか何かを食べて、その皮とか袋とか種とかを、窓の外に捨てるつもりで投げる。ところがまだガラス窓というものを知らないから、実はガラス窓に向けて投げつけていて、ぶつかり跳ね返ったのが運悪く乗り合いの西洋人に命中する。怒られるやら詫びるやら、マア大層な騒ぎだったよ」


 と、至極軽妙に物語っている。


 こんなエピソードもある。パリを訪れたときのことだ。軽気球に乗ったはいいが、風の吹き回しで東へ東へ流されて、ついに行方が知れなくなった。このためフランス中上を下への大騒ぎを演じたそうだが、当の気球と渋沢翁はオランダのアムステルダム近郊に落着して、なんとか事なきを得ていたそうな。


 こうした追憶談の数々を、渋沢栄一はその晩年、飛鳥山邸に客を招いてしきりに喋った。


 回想録を作ろうにも机に向かって端座して、原稿用紙に筆を滑らせるという風な、そうしたしゃちほこばった形式はどうもいまさら採る気になれず、代わりに用いたやり口が、とにかく各方面の変った人達を自宅に招き、座談に花を咲かせ、それを速記にとらせておけばそのうち自然と立派な回想録が出来てるだろうというもので、独創的なこと天衣無縫と呼ぶ以外ない。


 この人が500もの企業を設立できたのも納得である。なんと柔軟な頭脳あたまの持ち主であることか。

 

 


 以下、蛇足ながら触れておくと、渋沢栄一・正雄親子が宿泊したホテルメトロポールは今なおジュネーヴに現存している。

 相も変わらずレマン湖を見晴らせる景勝の地に、伝統と格式を備えた重厚な姿でたたずんでいるのだ。

 

 

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