新紙幣のデザイン草案が発表されて以来の流行りに、ここはひとつ便乗したい。最高位たる一万円札の肖像に選ばれ、すっかり「旬の人」になった渋沢栄一子爵について、わずかながら私の知り及ぶところを開陳しようと思うのだ。
翁の永眠より遡ることおよそ二年、すなわち九十歳のときである。東京市長永田秀次郎を伴って、都内の養育院を訪れた。
養育院とは、捨て子や刑期中の病人、行き倒れといった社会的弱者を救済するための総合的社会事業施設のことだ。渋沢栄一という人はそうした社会福祉にも理解の深い人物で、いや深いどころでは済まされず、そもそもこの養育院を設立した張本人が彼であり、以来天寿を全うするまで五十年以上に亘り同施設の院長職を勤め続けた経歴を持つ。
日本に於ける社会福祉事業の、草分け的存在であったと言えるだろう。
渋沢栄一の名がアメリカで非常に高かったのは、ひょっとするとこのあたりに一因があるのかもしれない。
とまれ、そこの子供たちを集めて渋沢翁が語ったことには、
「自分は今年が九十であるからして、
「同じ一年でも、九十分の一と十分の一とでは大変な違いである。九倍も価値が違っている。それだから皆さんは、我々老人のようにボンヤリして居ってはならぬ、我々老人の九倍も以上に勉強せねばならぬ」
年齢の価値を算盤玉でも弾くように、淡々と割り出し物語る。このあたり、実業家たる翁の人格がよく表れていて面白い。
この言葉に子供たちはむろんのこと、横で聴いていた永田秀次郎市長までいたく感銘を受けてしまった。
西洋の古い諺に、
――青年の時間は黄金の如し、壮年の時間は銀の如し、老年の時間は鉛の如し。
というものがある。
渋沢翁がこの古諺を知っていたかどうか、そこのところは定かでない。ないが、この諺を解説するにあたって、このとき養育院で翁が行った講釈ほど当を得たものはないであろう。九十の大台を突破してなお、翁の脳細胞のはたらきには些かの衰えも見られなかった。
渋沢栄一に限っては、本来鉛の如きその老年期の時間さえ、黄金に等しかったに違いない。
最後に渋沢翁本人ではないが、その四男たる渋沢秀雄氏の詠んだ
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