確か小学生の頃だと思う。学校図書館で本を借りた。
近代史の流れを、漫画で表現した本である。「暗黒の木曜日」だの「世界恐慌」だのといった一連の単語に初めて触れたのはこの時だ。
漫画であるだけに、子供の脳には焼き付きやすい。以降長期に亘って、フーヴァーは盲目的楽観に基きアメリカ国民を塗炭の苦しみに陥れたどうしようもない無能であり、その彼を選挙で圧倒的大差のもと打ち破って新たなる大統領に選出されたフランクリン・ルーズベルトは恰も救世主の再来であり、彼の指導下で実行されたニューディール政策の効により、みるみる復活するアメリカ社会――との印象が、私の脳を占めていた。
だから、本当に驚いたのだ。
天地逆転に匹敵したといっても大袈裟ではない。
そのニューディール政策が――正確には、政策の一環たる全国産業復興法が――違憲判決を受けていたと知った際には。
きっかけは、実に些細な事件に過ぎない。
そのころニューヨークにシェクターなる人物が居て、鶏肉の卸売業を営んでいたのだが、べつに営業内容を変えた覚えもないのに、ある日突然当局から、
――その営業、復興法違反である。
と訴えられてしまったのだ。
――なにかの間違いではないか。
と、シェクターならずとも思うであろう。
しかし、事態は彼の困惑など意にも介さず粛々と進む。まず、ニューヨーク地方裁判所が有罪を下した。仰天したシェクターは慌てて控訴に踏みきるも、巡回控訴院で再び有罪判決を喰らう。
――こんな馬鹿な話があるか。
が、二度の敗北もシェクターの心を折るには及ばなかった。彼は更に最高裁判所へ上告し、徹底的に争う姿勢を示したのである。
この頃になると、世間の耳目もよほどこの、一介の鶏肉業者に集まりつつあった。
当時の最高裁判所長官はチャールズ・エヴァンズ・ヒューズ。かつて国務長官の任を務めた経験すら持つ敏腕中の敏腕だった。
満堂が息を殺して見守る中、1935年5月、ついに判決が下される。
九人の判事、全会一致で無罪を宣告。シェクターの逆転勝利と相成った。
理由は大別して2つ。
1、合衆国政府が各州内の商業に制限を加える権能は、憲法の認めざるところである。しかも本件シェクター氏の営業は純然たる州内商業にして、州際商業にあらず。ゆえに此の法律の制裁を受ける義務なし。
2、復興法は憲法上の権限を超え、議会の与えたる委任権によって、大統領の発布せしものなるを以って、法律たる効力なし。
なにやら小難しくて分かりにくいが要するに、最高裁は復興法を違憲と断じ、訴訟の根拠たる法律そのものを根底から否定し失効させて、シェクターを無罪としたのである。
シェクターと、その弁護人たるジョゼフ・ヘラーの歓喜と得意は無上であった。なにしろこれで、同時期復興法違反の
――俺一人の勝利ではない。多くの
そう実感しても不思議はないし、事実その通りであったろう。彼らの満足そうに笑う写真が、数多の新聞に掲載された。
一方、たまらないのは政府である。判決を傍聴していた復興局長リッチバーグなどはあまりのことに血の気を失い、顔面蒼白を呈し、言葉を忘れたかの如く、周囲からどう声をかけられようと何一つとして反応せぬまま裁判所を去ったと云う。
民主党は激怒して、「偏見固陋にして時務を解せざる判決」と苛烈に批判し、この上は憲法を改正してでも押し通ってやると息まいたが、虚しかった。
共和党は踊り上がって喜悦して、「権勢に阿ることなく司法権の独立を守った愛国者」と激賞した。
与党と野党の関係は、いつの時代、どこの国でも変わらぬらしい。
結局ニューディール政策は、日本の「漫画で学ぶ」系統の書籍に描かれたような、麗しい代物では有り得なかった。
アメリカを恐慌のどん底から救い上げたのは、とどのつまり第二次世界大戦参戦の恩沢による部分こそが大である。
真珠湾の爆音に、フランクリン・ルーズベルトはさぞや蘇生の心地がしただろう。
事実、あれこそ彼とアメリカ経済にとっての福音だった。
陰謀論がまことしやかにささやかれるわけである。特定の何者かにとってあまりにも都合のいい展開は、滅多に起こり得ないだけに、勢い裏面の意図を想像させずにいられない。
税金みたいなものである。泉下のルーズベルトには甘んじて払っていただこう。
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