大正後期、安価なるアメリカ製の木材が、怒涛の如く日本国へ押し寄せた。
数字に徴して明らかである。
大正九年はものの八十七万石に過ぎなかった代物が、
翌十年には一躍して三百三十六万石、四倍弱を記録しており、
大正十一年ともなると、七月末で既にもう、六百三十八万石に達するという、ほぼ狂瀾の勢を示した。
(河川による木材流送)
識者は口々にわめいたものだ、
「国内林業が壊滅する」
と。
大いに危ぶみ、警告し、対抗策を講じなければと日夜強く訴えた。
…実際今日では、津々浦々、到るところ米材を使用し、殊に運搬不便の山間地方までも、その巨躯を横たへ、しかもその地方に鬱蒼と繁ってゐる「すぎ」や「まつ」、また原生林の「もみ」や「つが」を睨みつけてゐる有様を見ては、如何に呑気な林業家でも、林業の将来を考へずにはをられぬ。
上は大日本山林会会長・川瀬善太郎の言である。
文久二年――江戸時代に生を享け、人となった身にしては、ずいぶん平易な、読み取り易い文を書く。
(Wikipediaより、川瀬善太郎)
…この間も、王子製紙会社の藤原君がカナダの森林伐採及び送材の活動写真を持ち帰られ、その実況につき説明されたが、大きな河へ木材が山のやうに流れて来て動かなくなったのを、ダイナマイトで破壊して流送をなしてゐる。これを見ても、如何にその濫伐が行はれてをるかゞわかる。
藤原銀次郎とも多少繋がっていたようだ。
植えたはいいが輸入木材の拡大により採算が徐々に取れなくなって、林業自体の衰退により管理も杜撰に赴いて、為すところなく放置され、荒廃に帰す国の山林――。
この人々の危機予測は、畢竟するにそういう景色に帰着する。
なにやらどこかで、すごくよく、聞き覚えのある構図でないか。
戦後間もなく、先見の明なきアホンダラがやらかした造林事業の大失敗、日本の山を杉だらけにした不始末と、気味が悪いほど一致するのだ。
(杉林)
連中ときたら先を見通す視力に欠けるのみならず、過去を紐解き教訓とする敬虔さすら持ち合わせがなかったらしい。
そんな愚物の遺したツケを花粉症という形で以って支払わされる我々こそいい迷惑だ。
今年の痒みはやけに長引く。
粘膜の反応、今なお過敏で、いつ底止するとも知れぬ状態。
これは本当に花粉症か? と正体不明の不安が折々胸を刺す。
薬に使った金額も馬鹿にならなくなってきた。
目に触れるすべてを呪いたくなる。
病みとはやはり闇なのか。
思考が薄暗い淵へ向かって傾斜するのをどうにもできない。
出口はまだか。植物どもの繁殖期の終焉は。ただひたすらに待ちわびる。
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