穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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去勢夜話 ―第二天使ケルビムの聲―


 藿香。


 鶏卵の黄身ふたつぶん。


 生クリーム一合五勺。


 それから砂糖を小さじ半。


 これらは牛肉のスープと合わせることでジェニーリンド・ドリンクと呼ばれ、十九世紀の声楽家らが喉の調子を保つため、愛飲していたものである。


 最初にレシピを確立したのはスウェーデンのオペラ歌手、「グレイテスト」ジェニー・リンド。

 

 

Jenny Lind retouched

Wikipediaより、1850年のジェニー・リンド)

 


 発明者の名が、そのままレシピの名前となった。


 むろん、美味い代物ではない。


 が、声楽家の聲にかける執念は狂気だ。


 瑞々しく張りのある旋律を保つためなら睾丸さえも潰してのける、そういう類の集団である。その苦しみに比較くらべれば、たかが味蕾の反撥程度がなんだというのか。常用者は相当数に及んだという。

 


 美容術的な要求から去勢を行ふ場合がある。思春期に起る声変りを防ぐために去勢するなどがそれである。これは音楽師などによって行はれる事であって、中世紀のイタリアで盛んであった。十八世紀の頃ですら法王領に於て毎年二千人以上の少年がこの目的で去勢されたといふ事である。「去勢者の声は天国の第二天使ケルビムの声に似てゐる」と言はれた。そしてローマのあちこちの医者や理髪師の店先には、「ここでは廉価で去勢をいたします」といふ看板が立てられてあったといふ事である。(巴陵宣祐『人類性生活史』170頁)

 

 

(ローマ、アウレリウスの柱附近)

 


 正味な話、こういうことをやらかすのは宦官ぐらいのものとばかり思っていたが、なかなかどうして、意外なところに意外な伏兵が居たものだ。


 壇上にずらりと整列する去勢者の群れ――。


 想像するだにシュール至極な光景だ。ましてやそれが清らげなる衣を纏い、讃美歌を唱ずるとあってはなおのこと。


 なお、ジェニーリンド・ドリンクが本当に喉の調子を保つ上で効果があるものかどうか、科学的実証はなされていない。


 試して、徒労に終わっても、当方では責任を負いかねるゆえ悪しからず。

 

 

 

 

 


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