穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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百折不撓の体現者 ―大谷米太郎の野望―

 

 青雲の志やみがたく。富山県西部、草ぶかい西砺波郡の田舎から大谷米太郎が念願の上京を遂げたのは、明治四十五年四月二十四日のことだった。


 懐は寂しい。十銭銀貨が二枚入っているだけに過ぎない。


 むろん銀行預金などある筈もなく、正真正銘、これが彼の全財産に相違なかった。

 

 

10sen-M30

 (Wikipediaより、十銭銀貨)

 


 齢三十一にもなって、これはなんということであろう。彼の半分も生きていない学生の月の小遣いにさえ、あるいは劣るのではなかろうか。


 学生といえば、大谷はろくに学校へも通っていない。物心ついたときにはもう小作人として働きに出され、汗と泥に塗れていた。


 貧農の家に生まれた者の、どうしようもない現実である。


 牛馬の如く酷使される毎日。この状況下で、しかし脳内まで牛さながらに鈍磨せず、


 ――いつかは。


 やがていつかは功成り名遂げ、日本に大谷米太郎ありと仰がれるだけの大人物になってやる、と。


 野心を忘れることがなかったあたり、なかなか非凡な男であった。よほど地金が明るくできていたのだろう。

 

 

Toyama sangaku 1

Wikipediaより、富山県の山岳部) 

 


 話を、明治四十五年四月二十四日に戻す。憧れの帝都に立った大谷は、まず木賃宿に十五銭で床を取り、あとの五銭で焼きいもを買い、それできれいさっぱり一文無しの身になった。


 無為に過ごせば、明日からは夜露をしのぐ庇さえも借りれなくなる。


(なあに、ここは東京だ)


 人口集中する日本最大の消費都市。えり好みさえしなければ、仕事はいくらでも転がっているに違いない。


(幸い、身体だけは頑丈に出来とる)


 暫くは日雇い人夫でも何でもやって、他日の飛翔に備えるのみよ――。


 こういう場合、せめて気概だけでも現実をのんで・・・かからねば、それこそ死骸を路傍に晒す破目になる。


 誰に教えられることもなく、大谷はそのあたりの要諦を呑み込んでいた。

 


 六十日が過ぎた。

 


 幸い、大谷はまだ生きていた。


 生きているどころではない。木賃宿と日雇いの現場を往復する身でありながら、二十九円の貯金まで拵えることに成功していた。木賃宿が如何なる場所かを勘案すれば、これはなかなか驚異的な功績だ。

 

 

職人宿a

 (Wikipediaより、地方に残る木賃宿

 


木賃宿暮らし」を現代の語感に当て嵌めるなら、ネカフェ難民あたりが最も近いのではあるまいか。もっとも木賃宿に比べれば、ネットカフェなど金城湯池に等しかろうが。


 まず、木賃宿には間仕切りがない。宿泊客は大部屋に一人一畳程度で雑魚寝する。慣れぬうちは鼾が耳を聾すること甚だしいし、下手に寝相の悪い輩が隣に来れば、痣の一つや二つ程度覚悟しなければならないだろう。


 掃除も満足に行き届いているとはとても言えず、床は半ば腐ってきしみ、布団に入れば蚤や南京虫の大群がえたり・・・とばかりに食いついてくる。「黄泉にもかかる生き地獄のあるべきや」幸徳秋水あたりがおぞけをふるって評したそうだが、これはまったく的を射た表現といっていい。


 斯くの如き環境下に置かれた者が、徐々に餓鬼道の住民たるの様相を呈してゆくのは、まったく自然な成り行きだろう。


 木賃宿街に潜入した名ジャーナリスト、松崎天民ルポルタージュでこう書いた。

 


 富川町三千の労働者が、風呂に入るのは五日に一度位、理髪をするのは二月に一度、多くは年に四回位しか床屋の鏡を見ないと云ふ。(中略)毎日金を儲けても、食うと寝る方が大切なので、湯銭の二銭五厘もなかなか惜しく、理髪の十銭に至っては、容易に思ひ切りが付かねえので、多くは蓬頭乱髪の穢い姿、人間らしい根性が、段々薄くなるのも無理は無い。(昭和四年『明治大正実話全集 第十二巻』407頁)

 

 

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 松崎天民が目撃した中には十五年も木賃宿暮らしを続けている怪物まであったそうだが、むろん大谷米太郎は、そんなことで名を残したいとは思わない。


 人間は環境に染まるいきものだ。取り急ぎ此処から脱出せねば、折角の大望も萎んでゆくと直感していた。

 


 郷里を食いつめてごろごろしているような人夫達をみるにつけ「こういう絶望した人々、その日その日暮しの人々から一日も早く離れ、そうして一日も早く独立しなくてはならない」――木賃宿のほの暗い灯の下で私は毎日考えた。(昭和三十一年『財人随想 第二篇』112頁)

 


 さりとて二十九円では心もとない。堂々たる店舗を構え、商売をするにはとても足りない。まだ我慢していた方がいいような気もする。


(ええい、浅野総一郎とて最初は日本橋の袂で砂糖水を売って儲けたというではないか)


 郷里を同じゅうする偉大なる先駆者の事蹟を念じ、大谷は己を奮い立たせた。二十九円を資本もとでとし、甘酒の行商に身を転じた。


 思い切ったといっていい。己が弱気を蹴殺したのだ。


 甘酒屋を選んだのは、少壮時代農事の傍ら酒屋に奉公していたことがあり、その経験から製法をよく飲み込んでいたからである。

 


 それからというもの、正に商業の道を学ぶ苦難の連続だった。商売を変えること実に十六回、これは決して私が物にあきっぽいというのではない。商売の研究をしたかったからであり、世間学、人間学さらには金儲け学などの知識を広く持ちたかったからだ。(113頁)

 

 

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 よく「何かを始めるのに遅いということはない」といった意味の標語を見かけるが、大谷米太郎ほどこのフレーズを体現した男も珍しかろう。彼はついに夢を叶えた。この三十路越えの甘酒売りが、しかしその三十年後には「鉄鋼王」と称されて、日本の三大億万長者の一角を恣にする巨人にまでのし上がろうとは、いったい誰に予測できたか。


 同じ木賃宿の屋根の下で夜を過ごした誰一人とて、夢想だに出来なかったに相違ない。

 


 その後、高利貸に追いかけられたり、返品を食って品物が売れなくなったり、関東大震災で丸裸になるなど、文字通りの「七転八倒」の苦労があったが、人に好かれ、相手の気持を知り、その相手に心を合せて今日の実をむすんでいる。
 私の歩んできた人生について「幸運」の一語に流してしまう人もあろう。しかし幸運にめぐりあっても、平素の受け入れ体勢が出来ていなかったならば、すべて運は逃げてしまうのではないだろうか。むしろ幸運を自分の実力の中に抱き込むということ、さらに進んで運を打開し、運を引き寄せる力を養っておくことが必要なのだ。(115頁)

 

 

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 彼の興した大谷重工は後に大阪製鋼と合併し、合同製鐵として今日まで業界の第一線に立ち続けている。

 

 

明治大正見聞史 (中公文庫BIBLIO)

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昭和八年の「キング」十徳 ―諷刺画を添えて―

 

 

キング十徳


○面白い点では天下第一のキング
○楽しみながら修養出来るキング
○世の中のことは何でもわかるキング
○読者のためには努力を惜しまぬキング
○毎號大家の傑作を満載するキング
○いつも新計画で天下を驚かすキング
○どんな人にもよろこばれるキング
○国を良くし家庭を明るくするキング
○創刊以来雑誌界の覇王キング
○どこまでも発展して行くキング

 


 大日本雄弁会講談社発行、「キング」昭和八年五月號附録、『非常時国民大会』冒頭に掲げられている条々だ。

 

 

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 なんと景気のいい、大風呂敷であることか。


 どうせ見栄を張るのなら、これぐらいデカデカと張るべきだ。


 そして事実「キング」には、これを言う資格があるだろう。なんとなれば「キング」こそ、日本ではじめて出版部数百万を超え、「一番読まれた雑誌」の栄冠を恣にしたレーベルだからだ。


 俺たちこそが社会を、国を牽引してやると言わんばかりの気宇壮大さは、真に見習うべきものがある。


 他にもこの小冊子の見どころは色々あるが、今日のところは差し当たり、幾点かの風刺画を紹介するにとどめたい。

 

 

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 まずはこれ、清水対岳坊作、「非常時日本」


 支那を操り人形として日本といがみ合わせるアメリカ、それを背後から衝く隙を、虎視眈々と窺う赤露


 なんとも悲惨な状況下に落ち込んだものだ。


 味方は何処いずこ、突破口はいずれにありや。

 

 

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 同じく清水対岳坊作、「油断大敵相手は大ものだ」


 我に大和魂あれば、彼にヤンキー魂あり。容易に勝てる相手ではない。ゆめゆめ軽侮するなかれ。


 そんな論調が、少なくともこの時点では未だ罷り通っていた。

 

 

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 三たび清水対岳坊作、「あなたッ 非常時ですよもう起きたらどう」


 どんなにか世が乱れたところで、朝寝の愉快、ぬくい布団の誘惑はそうそう断ち切れるものでない。


 今も昔も変わることなき人情であろう。

 

 

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 前川千帆「愛国焼」


 満州事変突発するや、日清戦争の古強者が秋風四十年の古軍服を引っ張り出して、怪しげな露店を営む姿。なんでも愛国思想涵養の成分が含まれている菓子だとか。


 何かの暗喩か、それとも現実の光景の切り抜きか。


 いずれにせよ、機を見るに敏な輩というのは居るものだ。

 

 

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 宍戸左行「しかも彼等は行く」


 非常時日本という大荷物を車に乗せて、颯爽と前をゆく男たち。


 左から、


安達謙蔵(国民同盟
若槻礼次郎民政党
斎藤実(総理大臣)
鈴木喜三郎(政友会)
陸相
海相


 を、それぞれ描いたものだろう。


 胸を張り、肩を聳やかし、如何にも堂々としたものである。


 しかしながら本当にこの大荷物を動かしているのは彼らの後方、右端で独り八の字眉に大汗かいてる高橋蔵相その人なのだ。


 このダルマさんは本当に、大衆からの人気があった。


「あの人が財布の紐を握っているなら大丈夫だ」という、ふわふわとした形のない安堵感。


 一見他愛なさげな効果が、しかしその実どれほど得難き資質であったか。そのあたりの消息を、よく反映した一枚だろう。

 

 

高橋是清自伝(上) (中公文庫)

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日立造船所の苦闘 ―松原與三松の鐘―

 
 
鐘一つ
売れぬ日もなし
造船所

 


 戦後まもなくの日立造船を題材にした歌である。


 宝井其角の古川柳、

 

 

鐘一つ
うれぬ日はなし
江戸の春

 


 を、あからさまにもじった・・・・ものであるだろう。


 それにしても何故なにゆえに、造船所が鐘など鋳ねばならぬのか。答えは明瞭、敢えて論ずるまでもない。敗戦以降、本来の仕事が全く入って来なくなった所為である。

 

 

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 軍の解体ばかりではない。マッカーサー・ラインの制定、船舶保有量150万総トン以下方針――煩雑の弊に陥るゆえ詳述は避けるが、敗北した日本は、その代償としてありとあらゆる権利を縛られ、まったく海を・・奪われた・・・・


 およそ島国にとってこれほどみじめな境遇もない。


 海運の立ち直りは絶望的、遠洋漁業も遠き日の夢。このような悲惨な状況で、造船所にお呼びがかかる道理もなかろう。日立造船所八代目社長・松原與三松よさまつは当時を顧み、


「暗黒時代」
「造船界の最苦難期」


 と万感籠めて述べている。

 


 昨日までは一億総蹶起、産業報国などと威勢のよいスローガンを掲げ、増産増産と励ましていたものが、その日から、鉸鋲のひびき、鉄槌の音もぱったり絶えて、造船所のなすべき仕事もほとんどなくなった大きな工場は、まことに火の消えたさびしさとなったのである。加うるに進駐軍の上陸におびえる種々の流言蜚語、あられもないデマさえ飛んで、今から思えばまことに寒心すべき状態であった。(『財人随想』318~319頁)

 

 

Headquarters of Hitachi Zosen Corporation

 (Wikipediaより、日立造船

 


 とまれ、折角の設備を腐らせておくのは勿体ない。


 第一このまま拱手傍観していれば、四万からなる従業員が飢えて死ぬ。やれることは、なんであろうとするべきだ。


 そう思い切り松原は、およそ造船所の機能とは遠く離れた業務にさえも手を延ばす。ミシンの製造だってやったし、梵鐘を鋳たのもその一環だ。


 知っての通り、大東亜戦争中の日本は資源不足を補うために、一般家庭の鍋釜さえも取り立てた。


 釣鐘のようなデカブツが当然見逃される筈もなく、金属類回収令の名の下に容赦なく徴発、熔かされて、兵器に生まれ変わったものである。

 

 

Anzai Elementary School 1

 (Wikipediaより、金属回収)

 


 さて、いざ戦争が終わってみると。鐘楼とは名ばかりのがらんどうの寂しさが如何にも目につき、吹き抜ける風が冷たくてならず、この空白をどうにかして埋めたいと、梵鐘復旧の気運が各地に於いて盛り上がる。


 松原は、敏感に反応した。


 夥しきこの需要、是非とも我が手に収めざらめや。

 


 まず梵鐘について、科学、考古学、宗教等の立場から、各界権威者の意見をきき、形態、音響その他について、種々の研究をとげて試作したのであるが、これが予想外の好成績を収め、その出来栄えは古来の名鐘にもまさる記録をつくったので、たちまち注文が殺到し思わぬ梵鐘景気を招来したのである。(319~320頁)

 

 

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 日立造船所が製作した梵鐘の数は、ざっと見積もって数百個に達するという。


 なるほど「鐘一つ売れぬ日もなし」と歌われるのも納得だ。どうも品質も上等らしいし、ひょっとするとこのとき鋳られた梵鐘は、今も日本全国津々浦々で撞木に突かれ、静かな響きを伝え続けているかもしれない。

  

 

國破れてマッカーサー (中公文庫)

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  • 作者:西 鋭夫
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黒田清隆の配偶者・後編 ―小人の妬心、恐るべし―

 

 実に多くの東京市民が、彼と、彼の邸宅に、羨望のまなざしを送ったものだ。


 材木商、丸山傳右衛門のことである。


 ときに金閣寺まがい」と揶揄されもしたその屋敷の結構は、山本笑月『明治世相百話』に於いて特に詳しい。

 


建坪はさまで広くないが総て唐木造り、一階大広間の九尺床は目の覚めるような紅花櫚の一枚板、左右一丈二尺余の大柱は世にも珍しい鉄刀木の尺角、上から下まで精密な山水の総彫、多分は堀田瑞松あたりの仕事であろう。この柱一本で立派な邸宅が建つという代物。左右のわき床は紫檀黒檀の棚板、三方の大障子は花櫚の亀甲組白絹張りで、開閉にも重いくらいの頑丈造り、一間幅の回り縁は欅の厚板、天井は三尺角樟の格天井、いや全くお話ですぞ。

 

 

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(明治十九年以前の金閣寺

 


 如何に富強といえど、商人がこれほどの豪邸を拵えるなど、門構えひとつにすら一々厳格な規定のあった江戸時代では考えられぬ、新政府治下ならではの、ある意味維新を象徴する建造物であったろう。


 そんな場所へ、維新回天の功労者たる黒田清隆が足を運ぶ。見ようによってはこれほど相応しい組み合わせもない。


 訪問の目的が、何であったかは定かでない。評判の四層望楼が気になっての物見遊山だったとも、傳右衛門に金を借りに行ったのだとも、色々だ。


 が、玄関にて靴を脱ぎ、座敷にあがってもてなしを受けたときにはもう、本来の用向きなどこの男の脳内から影も形もなくなっていたのは確からしい。


(美しい。――)


 給仕役として黒田の側につけられたのは、傳右衛門自慢の愛娘丸山滝子その人である。


 舞の上手であったことも、おそらく無関係ではないだろう。しなやかでそつ・・のない動作の中に、さりげなく香る婀娜あだっぽさ。滝子の魅力に、黒田はたちまちグニャグニャになった。


 その日のうちに滝子を馬車に積み込んで、連れて帰ってしまったとの噺さえも残されている。

 

 

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 真偽のほどはわからない。


 しかしまあ、仮に即刻連れて帰りたいと言われたところで、傳右衛門は断らなかったことだろう。


 むしろえたり・・・とほくそ笑んだに違いないのだ。彼は端から黒田に滝子を縁づかせる心算であった。そうでなければいったい誰が、手間暇かけて蝶よ花よと育て上げた大事な娘に給仕の真似事などさせるであろうか。


 とんとん拍子に話は進み、例の明治十三年十二月十二日、二人は結婚。滝子は黒田滝子となる。


 結婚式の仕度には、黒田邸から馬車が十七台も来たそうだ。


 清隆が如何にこの嫁に入れ込んでいたかよくわかる。


 が、この後妻との関係も、やがては思わぬ蹉跌に嵌り込むというのだから、あるいは清隆という男には女難の相が生まれつき備わっていたのかもしれない。


 淵源は、生家である丸山家の没落にこそ見出せる。


 それは極めて意外な方面からやって来た。左様、文字通り「やって」「来た」のである。


 宮内省内匠寮に籍を置く官吏数名――この一団がある日のこと、気晴らしがてら深川あたりをぶらぶら散歩し、その途上、


 ――折角ここまで来たのだから。


 かの有名な「丸山の金閣」を拝んでから帰ろうぜ、と。


 誰はともなく言い出して、いいねえ、行こう行こうという流れになった。

 

 

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小泉癸巳男 「深川木場問屋町」)

 


 ところが実際に訪ねてみるとどうであろう。既に黒田の里方として政商の地位を確立し、たいへん鼻息の荒くなっていた丸山家では、この連中を「小役人」と頭ごなしに決めつけて、


 ――何を寝言ほざいてやがる。


 顔を洗って出直せと言わんばかりの乱暴さで、さっさと叩き返してしまった。


 門前払いといっていい。


(おのれ)


 当たり前だが、官僚たちは意趣を抱いた。


 この怨み晴らさでおくべきか、と、奥歯をきりきり鳴らせるほどに憎悪した。


 果たして天は彼らに対し微笑んだ。ちょうどその頃、明治六年の失火により焼失した江戸城西の丸御殿に代わる新たな皇居御造営の儀が正式に決定していたのである。

 

 

Square of Meiji Palace

 (Wikipediaより、明治宮殿)

 


 丸山家では当然この大事業を委任されるものとして、既に大量の材木を確保すべく働いていた。


(そうはさせるか)


 内匠寮の復讐者たちは、この大命を絶対に丸山づれ・・に仰せつけられることなきように、おそるべき運動を開始した。


 各員が各員の持ち得るツテをあらん限り動員し、まさに百方運動の有り様を現出。妨害工作に努めた結果、ついに念願叶って丸山を皇居御造営から切り離すことに成功している。


 まこと、世に小人の妬心ほど厄介なものはないであろう。蟻の穴から堤も崩れる。ORCA旅団のメルツェルは、流石に真理をついていた。


 本懐を遂げた「小人ども」は、


(ざまをみよ)


 さぞ鼻高々であったろう。


 事実、傳右衛門は地獄を見た。


「話が違うではありませぬか」


 と、いくら清隆に泣き付いたところでもう遅い。このとき彼が開けた負債の額は、低く見積もっても三十万円に届くと云われる。


 明治初頭の三十万は、現代貨幣価値に換算しておよそ六十億円にも相当しよう。

 

 

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 これが契機となって丸山は坂を転がり落ちるように没落し、明治十八年、ついに破産閉店の憂き目を見ている。


 江戸時代から続く老舗の、あまりにも呆気ない終焉だった。


 この没落は、滝子の精神にも一方ならぬ負荷をかけたものらしい。実家の危機を救わなかった夫への不満、このあたりの構図は、なにやら徳川家康と築山殿の関係を彷彿として趣深い。人間とは時を移し場所を変えても、結局同じような悲喜劇を演ずるものだとしみじみ思う。


 もっとも黒田清隆の場合、家康ほど異常な別れを経験せずには済んでいる。というより、なにごとかが起きる前にこの人は、脳の血管を詰まらせて死んでしまった。


 多年の飲酒が災いしたものだろう。


 未亡人となった滝子は、そう間を置かず紛失物取調の役儀で家に出入りした某警官と桃色遊戯を営んだとかで、黒田の家を追われている。


 明治三十九年になってから、我が子の引き渡しを求めて黒田家に訴えを起こしたが、むなしかった。

 

 

Countess kuroda takiko

 (Wikipediaより、黒田滝子)

 


 傳右衛門ご自慢の「金閣寺擬い」はその後浅草花屋敷に移された。「奥山閣」命名して一般の観覧に供したところ、たいへんな盛況で、長く当園の目玉であったが、関東大震災の猛火からは逃れ得ず、ついに灰と化している。


 兵どもが夢の跡。近代社会はスピード社会、栄枯盛衰、有為転変も実に激しい。


 つまりはそういうことなのだ。

 

 

明治世相百話 (中公文庫)

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黒田清隆の配偶者・前編 ―若い娘好きの婿―

 

「いま、お酒を呑んでおいでですか。あなたは酔うとおかしくなる方だそうで……」


 怪傑杉山茂丸が、黒田清隆と初めて顔を合わせた席で、劈頭一番放った台詞がこれである。


 この薩人の酒癖の悪さがどれほど人口に膾炙されきっていたか、如実に示すエピソードに違いない。


「なにせあれは、自分の妻すら酔った勢いで殺した男だ」


 と、口さがない者は言うであろう。


 この風評は、いったい事実なのかどうなのか。


 少なくとも、東京都民の大多数が事実と信じるだけの下地は既に整っていたようである。

 

 

Kiyotaka Kuroda 2

 (Wikipediaより、黒田清隆

 


 黒田婦人、名はきよという、彼女が清隆の許へ嫁いだのは15歳という妙齢の折。明治二年十一月二十二日の佳き日であった。


 明治六年、第一子を出産している。


 男児であった。


 はじめと名付けたこのやや・・が無事に育っていたならば、あるいは黒田の晩年は、よほど様変わりしていただろう。


 しかしそうはならなかった。夭折した。僅か二年の命であった。


 ――七つまでは神のうち


 と言われる通り、この時代の乳幼児死亡率の高さときたらまったく話にならないほどで、平均寿命を引き下げる巨大な要因にもなっていた。


 明治八年、清は再び懐妊し、今度は女児を生み落とす。


 と名付けたこの赤子も、しかし翌年には兄と同様の運命を辿った。


 黒田にとって家庭がなにやら面白くなく、どころか逆に息苦しいものを覚える場所になったのは、だいたいこの辺りからだという。


 代わりに当時の豪傑連の常習として、紅燈緑酒のきらめきに鬱懐を散ずるようになった。

 

 

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 特に芝神明のとある芸者に入れ込んだらしい。たまらないのは婦人である。清隆と違い、外部に容易く逃避先を求められるような、そんな身軽さは彼女にないのだ。


 ある日、ついに限度を超えた。


 具体的には、明治十一年三月二十八日である。


 すっかり夜も更けてから帰ってきた清隆を見て、


(どうせまた、あの女のところへ通っていたのだろう)


 むらがり湧いた嫉妬の念にもはや抗う術もなく、溜め込んだ怨みを縷々と述べだす清婦人。


 が、誰にとっても不幸なことに、このとき黒田は酩酊していた。


 酒に酔ったときの黒田というのは、人の形をした竜巻か何かと変わらない。豪胆とか大度とか、そういった人間的美質がすべて吹き飛び、ただただ一個の衝動となる。


 この場合もそうだった。にわかに逆上した清隆は、日本刀を素っ破抜くや妻の体を袈裟懸けに一閃。斬殺してしまったという。


 すぐさま我に返った清隆であるが、哭こうがどうしようがもう遅い。


 婦人はとっくに物体と化してしまっている。


 享年23歳の若さであった。

 

 

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 深夜であるにも拘らず、彼の屋敷は上下が顛倒するほどの騒ぎになった。


 なにしろ当時の黒田と言えば、もはやかつての了介ではない。


 西郷隆盛以下高名な士を西南戦争でごっそり喪った後の、薩藩に残された代表的勢力家であり、陸軍中将兼参議開拓長官正四位勲一等の堂々たる顕官である。


 白昼堂々しょっ引くには、いささか大物になり過ぎた。


 やがて黒田婦人の「病死」が伝えられると、


 ――本当は黒田が殺ったのを、政府ぐるみで隠蔽したのだ。


 との疑惑が、団団珍聞なる一雑誌を中心として発せられ、瞬く間に社会に横溢するの観を呈する。


 これは社会諷刺にポンチ絵を使うことを思いついた日本最初のポンチ雑誌で、やがて起こる藤田組贋札事件も、同様の手法で面白おかしく報ぜられることになる。面白いだけに、人々の頭脳にもまた浸潤し易かったのだろう。明治初頭の歴史の流れは、この不平吐露機関が作り出した部分も少なくはない。


 なにしろ大久保利通の斬奸状にも、この「団団珍聞」報道を真に受けた形跡がありありと見える。

 


 …頃日世上に陳ず、黒田清隆酩酊の余り暴怒に乗じ其妻を殴殺す、たまたま川路利良其座に在りと而して政府之を不問に置き利良亦不知と為し已む、嗚呼人を殴殺するは罪大刑に当る、而して既に其事世上に伝評す、政府に在っては被殺人の親族之を告ぐるを待て其を治めんと欲するか、未だ知る可からずと雖も、利良は何者ぞ身警視の長となり天下の非違を検するの任に在り、而して黙々不知る者豈に之を私庇せんと欲するか、夫れ姦吏輩の法律を私するおおむね斯くの如し…

 

 

Toshimichi Okubo in the Aoyama Cemetery

Wikipediaより、大久保利通の墓) 

 


 結局、黒田はその妻を殺害したのか、しなかったのか。


 真相は曖昧なまま、しかし相次いで起こる他の重大事件に気を取られ、徐々に人々の記憶からその衝撃が薄らいでいった翌々年。


 明治十三年十二月十二日、世間は再び、黒田清隆の名を強烈に印象することとなる。


 この男は、再婚したのだ。


 相手は深川木場の豪商、丸山傳右衛門の娘滝子


 年齢、実に17歳


 41歳の清隆とは、ほぼ二回り近い年の差がある。


 ――なんと若い娘好きの婿殿だ。


 ということで、世間は目を見張らざるを得なかった。

 

 

幕末明治 女百話 (上) (岩波文庫)

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  • 発売日: 1997/08/19
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三四半世紀 ―75年目―

 

 八月十五日である。


 多くは語るまい。


 ただ、この日にこそ開くに相応しい本がある。


 以下をよすがに、共に先人を偲んでくれればありがたい。

 

 

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身はたとえ南の孤島に朽ちるとも
永久に護らん神州の空
義烈空挺隊 新藤勝
 

何時征くか何時散るのかは知らねども
今日のつとめに吾ははげまん
詠人不知
 

花負いて空射ち征かん雲染めん
かばね悔なく吾等散るなり
詠人不知
 

生も死も吾もなし
唯 国の柱となる
義烈空挺隊 遠藤重男

 

 

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皇国の弥栄いやさか祈り玉と散る
心のうちぞたのしかりける
陸軍大尉 若杉潤二郎
 

身はたとへ千尋の海に散り果つも
九段のもりにさくぞ嬉しき
海軍水兵長 弓野弦
 

若桜春をも待たで散りしゆく
嵐の中に枝をはなれて
陸軍少尉 若尾達夫
 

吹く毎に散りて行くらむ桜花
積りつもりて国は動かじ
海軍少佐 根尾久男

 

 

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君のため朝霜ふみて征く途は
貴く悲しく嬉れしくありけり
陸軍少尉 篠塚龍則
 

血汐もて茜と染むも悔ゆるまじ
雲をねぐらの空の御楯は

ほがらかにつゝがなかれと祈るなり
我が身は更に惜しからねども
海軍少尉 板橋泰夫
 

いざさらば我は栄ある山桜
母の御もとに帰り咲かなむ
海軍少佐 緒方襄

 

 

英霊の絶叫―玉砕島アンガウル戦記 (光人社NF文庫)

英霊の絶叫―玉砕島アンガウル戦記 (光人社NF文庫)

  • 作者:舩坂 弘
  • 発売日: 2014/12/01
  • メディア: 文庫
 

 

 

 


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迷信百科 ―古銭の魔力―

 

 いくらおかねがありがたいモノだからといって、一万円札を刻んで炊いて粥にして喰えば頭脳あたまの回りが良くなると、本気で信じる馬鹿はいない。


 そんなことをしても福澤諭吉の天才にあやかれるわけがないであろう。敢えて論ずるまでもない、至極当然のことである。


 が、これを当然と看做すのは、科学によって合理的思考を鍛冶された現代人の特権らしい。遠く日本史を振り返ると、英才教育の一環として万札の粥を息子に喰わせる式の思考、迷信が、ずいぶん長らく蔓延っていた。

 

 

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 建炎通宝を竈に塗り込むあたりはまだいい。なんとなればこの銅銭を鋳造した南宋は、火徳王朝たる復興を悲願に掲げていたからだ。だから最初の年号も、建炎――炎ヲ建ツルと定めた。


 火への祈りが籠りし通貨を、火を扱う竈に塗り込む。そうすることで火の災いが除かれると期待して。まんざら理屈が通っていなくもない行為であろう。


 ところが小判で撫でると顔の痣が掻き消えるとか、匂いを嗅ぐだけでぴたりと鼻血が止まるとか、そっちの方に行くと段々わけがわからなくなる。いったいどんな根拠があって、そんな発想に至るのか。


 江戸時代に編纂された『銭範』附録『古銭厭勝効験』には、そうした民間療法? の数々が克明に記載されている。ちょっと抜粋してみよう。

 


○時気温病にて頭痛壮熱せば古銭百五十七文水一斗を七升に煎じ汁を服す
○心腹煩満又は胸脇の痛に古銭二十文水五升を三升に煎じ用ふ

 


 どちらも古銭の出し汁を飲めば病気が治ると説いている。

 


○下血には古銭四百文酒三升を二升に煎じ服す
○赤白帯下には古銭四十文酒四升を二升に煎じ服す

 


 水ではなく酒で煮込むやり方もある。
 折角の香気が銅臭で台無しになりそうで非常に勿体ないのだが、健康の前には些事であろう。

 


○腋臭には古銭十文を焼き酢に浸し麝香を抹にして入れ其汁をぬる
○百蟲耳に入には古銭十四文を猪膏に合して煎じ注入る
○霍乱転筋には古銭四十九文木瓜一両炒め烏梅うばい五枚を合せ煎じて服す

 


 色々使っているだけに、このあたりはちょっと効果がありそうだ。

 

 

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 金を太陽、
 銀を月、
 銭を星にそれぞれなぞらえ、尊重せよと啓発した学者もあった。

 


「金銀銭は、天地人の三つに象り、国家を治ること鼎の足の如し、金は陽にして日に象り、銀は陰にして月に象り、銭は陰陽の間にして星に象る、故に金銀銭を粗末にする者は、日月星の三光に捨てられ、立身出世覚束なし」

 


 やはり江戸時代の本草学者、水野澤斎の言である。


 これだけ持ち上げてもらえれば貴金属も満足だろう。直江山城守兼続「不浄の物」「手で触れたくもない」と蔑まれ、扇子によって弄ばれた昔を思えば、なんと目覚ましい出世であろうか。


 ここまで書いて、ふと思い出した。そういえば子供のころ、御先祖様の墓石に幾枚もの古銭が乗っているのを見たが、あれも何か深い意味があったのだろうか。

 

 

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 長いこと風雨に曝されて、すっかり黒ずみ、つまみ上げれば錆がぼろぼろこぼれて指につく、見るもきたならしいあの物体。


 子供心に興味を惹かれ、持って帰ろうとしたものの、親に見つかり窘められた。


 元の場所に戻しなさい、と。私は素直に従った。


 今にして思えば、その従順さが悔やまれる。隙を窺い、こっそり懐に忍ばせてしまえばよかったのだ。他所様の墓ならまだしも、自分の家のモノなのだから苦情を持ち込まれる筋もなかろう。こんなことで祟るほど、私の先祖は狭量ではなかったはずだ。


 もう二十年以上も昔であるにも拘らず、こうしてはっきり思い起こせる。嘘喰いで梶隆臣が「人の世を統べる大魔王」と慄いたのもむべなるかな。金の魔力は、やはり途轍もないものだ。

 

 

嘘喰い 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

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