穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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夢路紀行抄 ―呪いと海に底は無く―

 

 夢を見た。
 名状し難き夢である。


 最初、私は海に居た。

 

 

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 360度何処を見ても岩礁の一つさえ目に入らない、大海原のど真ん中。


 空の青と海の蒼とで塗り潰された、ある種の異界に在って私は、大口開けて迫り来る人喰い鮫から必死の思いで逃げていた。――こともあろうに、背泳ぎで。


 ふざけているわけではない。
 やむにやまれぬ事情があった。


 私の額には防水性のカメラが取り付けられており、これで「迫力ある映像」を撮影するのが今回の仕事だったのである。


 クロールやバタフライでは、背後から襲い来る鮫の姿は映せない。


 必然として背泳ぎになる。それも、顎を不合理なほど引いた形の背泳ぎに。


 おかげで襲撃者の姿がよく見えた。

 

 

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 幾層にも連なった、鋸の如き乱杭歯。あんなものに捕まって、生き延びられるわけがない。人体など豆腐さながらに噛み潰される光景が勝手に脳裏に浮上する。


 恐怖に顔を引きつらせつつ、それでも最後の最後まで背泳ぎのスタイルを崩すことなく、仕事を全うしたのは我ながらクソ真面目というか、なんというか。

 


 そのうちに場面が切り替わり、気付けば私は、何処かのパーティー会場に居た。

 


 大がかりなスクリーンに投射されている映像は、紛れもない、先刻私が命を懸けて撮影した、人喰い鮫からの逃走劇。迫力満点なその映像に、会場からは時折息をのむ音が聴こえ、それが私になんとも言えない充足感を与えてくれた。

 


 ――しかしながら太古の海には、これよりもっと恐ろしい生き物がいた。

 


 雲行きが怪しくなったのは、そんなナレーションが加えられた瞬間である。


 次いで映し出されたアレを、いったいどう表現すればよいのか。


 感覚としてはスイミーが近い。小魚どもが捕食されぬよう寄り集まって巨大な魚に擬態する、国語教科書に掲載されていたあの話。あの通りのことを、ナメクジで再現したような具合だ。

 

 

スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし

スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし

  • 作者:レオ・レオニ
  • 出版社/メーカー: 好学社
  • 発売日: 1969/04/01
  • メディア: ハードカバー
 

 


 何億匹もの軟体生物が寄り集まって、首長竜を模している――そのおぞましさたるや、到底言語に尽くし切れるものでない。


 ナレーターは野太い声で、この生き物が数万年に亘って地球の海を支配したこと、にも拘らずある日突然、何の前触れもなく絶滅したこと等々を興奮もあらわにまくし立て、絶滅の理由に関しては学界でも未だ定説が得られていないと浪漫たっぷりに解説するのだ。

 
 が、私は彼の熱意に付き合ってやる気には到底なれず、視線を窓外へと移してしまう。


 するとそこでは、揚羽の蝶が、口のあたりから三本の赤黒い触手を伸ばして池に咲いた蓮の花から蜜を吸い上げているところであった。

 

 

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 触手の長さは、一本当たり一メートルにも及んでいたろう。それらが花にがっちり巻き付き、体を支え、羽を広げたまま宙で微動だにしていない。こうなってしまうと触手と蝶の、どちらが本体なのか分からなくなる。


 ――美しくとも、やはり芋虫の成体なのだ。


 こみ上げる生理的嫌悪感と共に、納得を深めたところで目が覚めた。

 


 ――呪いと海に底は無く、故にすべてがやってくる。

 


 しばらくの間『Bloodborne』の有名なる一節が、頭の中で木霊していた。

 

 

【PS4】Bloodborne PlayStation Hits

【PS4】Bloodborne PlayStation Hits

 

 

 

 


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伊藤文吉と鮎川義介 ―血を継承する男ども―

 

 灘五郷の酒「白鹿」については、日産コンツェルン創業者、鮎川義介にもいわく・・・がある。


 彼にはアル中の親友がいた。


 ビール、日本酒、ウイスキー等アルコールなら何でもござれ、一日の摂取量が二升を割ったらおれは死ぬと豪語していたその人物こそ伊藤文。何を隠そう、明治の元勲・伊藤博文の血を継ぐ男だ。

 

 

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 (Wikipediaより、右手前が伊藤文吉)

 


 ただし正妻の子ではなく、伊藤家に行儀見習いに来ていた女性に博文が手を出したことで生まれた、所謂庶子の関係である。伊藤博文にはそういう好色な面があり、彼の子であると認められぬまま市井に紛れた落とし種が幾粒あったか、今となっては知る由もない。


 旧姓・木田文吉が博文と親子の対面を果たし、「伊藤」姓を名乗るようになったのは、まだ彼が旧制山口県立豊浦中学校に通っていたころ。春帆楼という、日清戦争の講和会議が営まれ、下関条約の締結された屋根の下にて両者はまみえた。

 

 

View of Shumpanro Hotel, Shimonoseki, Yamaguchi

 (Wikipediaより、春帆楼)

 


 この座に於いて博文は、


「おぬしが文吉か」


 と一言いっただけで至極あっけなく終わったと、後に文吉本人が鮎川に対して告げている。


 とまれかくまれ、これで文吉の人生は一変した。


 彼は親の七光を存分に活かし、それまで雲の上と仰ぐだけだった人々と熱心に交流してゆくこととなる。


 その交際相手に、伊藤博文「御神酒徳利」と称されるほど形影相伴う仲だった、井上馨が含まれないわけがない。事実、伊藤文吉は井上邸に出入りすること屡々で、その庇護を受けるところまた大だった。

 


 必然として、井上馨姪孫てっそんである鮎川義介とも繋がりが出来る。

 


 この関係は、役人業から思い切って実業界に転身したのはいいものの、まず開始した満洲紡績会社が大失敗し、次いで入社した久原鉱業もその後の経営思わしくなく、多額の借財を背負ってにっちもさっちもいかなくなっていた文吉を、見かねた鮎川が救済してやったことでいよいよ昵懇なものとなる。


 このとき文吉から鮎川へと送られた覚書というのが『百味箪笥 鮎川義介随筆集』にまるごと掲載されているので、折角だから引用しよう。

 


 覚 書
 自分儀、久原鉱業会社取締役として就任以来日尚浅く候得共、会社の現状に対し常々憂慮禁ぜず、種々其の対策に関し同僚とも協議を重ね、相当努力は尽し来りしも微力及ばず、遂に会社は昨年末の如き窮境に陥り、貴殿の高配に依り漸く難関を切り抜け得たる如き醜態を暴露したるは、誠に慙愧の至りに不堪候処、貴殿更に此度大勇猛心を発揮せられ、生命を賭し会社病根の根本的治療に没頭せらるるに至りしは、感激の至りに不堪、

 


 自分の力不足を素直に認め、己の手ではどうしても解決できなかった難問をものの見事に捌いてのけた鮎川義介をほとんど救世主さながらに持ち上げている点、経営者としての資質はともかく、文吉の人の好さがにじみ出ている。


 事実、鮎川は傾いていた久原鉱業を建て直し、更には日本産業と改称。


 日産コンツェルンの一大基盤と成さしむるべく、導いてゆくこととなる。

 

 

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日産スタジアム上空)

 


 伊藤文吉、更に筆を進めて曰く、

 


就ては余も此際私財は挙げて之を提供し、貧者一燈の用に供すべきは勿論の儀に候得共、余や財界に入りて日尚浅く、資産殆ど皆無なるのみならず、借財の多きに苦しむ実状にあることを告白するの余儀なき境遇に有之候次第に付、其の辺御諒察を乞ふと同時に、今後貴殿の活動に随従し、余の精神余の身体を以て及ぶ限り相働き申すべく、貴殿の高潔なる心事、勇猛なる決意に対し感銘措く能はず、爰に余の誠意を披瀝して誓約候也
  昭和二年三月一日

伊藤 文吉  


 鮎川 義介殿

 


 文吉の心底が秋風の如く爽やかなことを知った鮎川は、以来彼を信頼し、隔意なき相談相手として重用してゆく。


 やがて大東亜戦争が勃発した。

 

 

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 国内の物資は極端なまでに欠乏し、生活必需品さえもが配給制へと移行する。


 むろん、酒も厳しい統制を免れなかった。伊藤文吉が生存上不可欠とする「一日二升」など夢のまた夢、口に出しただけで「非国民」と罵られかねない贅沢であろう。


 必然として彼は絶命しなければならない。


 少なくとも廃人化は不可避であろう。アル中から酒を取り上げるとはそういうことだ。


 しかし、そうはならなかった。伊藤文吉は戦時下を生き延び、1951年まで存命している。


 彼をして65歳の寿命を保たしめたのは、やはり盟友・鮎川義介。政財界に隠然たる影響力を持つ鮎川は、その有利を発揮して、あの過酷極まる戦時下に於いても酒の供給路を確保していた。

 


 当時酒は不自由しなかった。というのは山下亀三郎翁との約束で灘の白鹿を用達させることに成功したからである。(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』177頁)

 


 この「白鹿」が、伊藤文吉の正気を守り抜いたというわけだ。


 文吉が慟哭せんばかりに感動したのは言うまでもない。


 後、鮎川が巣鴨収容所に投獄されると、伊藤文吉は残された家族の面倒をよく見、更には岸本勘太郎と手を取り合って日産関係の調整を見事にこなし、以って多年の厚恩に報いた。

 

 


 伊藤博文井上馨
 伊藤文吉と鮎川義介


 一連の組み合わせを眺めていると、世代を超えて受け継がれる、血のえにしを感じずにはいられなくなる。血統への信仰が拭いきれぬあたり、私はどこまでも日本人だ。

 

 

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伊藤博文

 


 伊藤博文明治三十八年四月四日井上馨に対して以下の歌を贈っている。

 

 

国のため尽す心を大君の
しろしめすをも厭う君かな

 


 添え書きには、「盟友の虚心国に尽せる志を思いやりて」と記されていた。


 井上はこれを表装して家宝とし、時々床の間に掲げていた。その情景は鮎川の記憶野に色濃く焼き付き、晩年まで語り草にしたという。

 

 

  

 

 


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酒の肴の禁酒本 ―長尾半平の警告―

 

 

銚子の口には狐がすむよ
コンが重なりゃだまされる

 


 福島県のとある地方に古くから伝わる俚謡である。


 一献、二献と酒量の単位を表す「献」と、狐の鳴き声たる「コン」をかけたわけだ。
 悪い出来ではない。私はこれを、昭和五年の小雑誌、『禁酒之日本』八月号中に見出した。

 

 

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 むろん、今更言うまでもなく、私は大の愛酒家である。


 憂いを掃うこのありがたき玉帚を手放すなど考えられない。


 だがしかし、己と反対側の立場から書かれた文章を読むというのも、たまにはいい刺激になるものだ。


 それに何より、酒を攻撃する文章を、酒を片手に読むというのはなにやら背徳的な悦びがこみ上げて来て快い。肴として、実に上等なものがある。


 たとえば灘の名酒の一つ、「白鹿」に向けられた批難の激しさときたらどうであろう。命の雫といっていいこの飲み物に、禁酒家たちは「シタタカ毒水」とルビを打ち、醸造主たる辰馬吉右衛門「不生産的事業主」とこき下ろした。

 

 

Hakushika Memorial Museum02st3200

 (Wikipediaより、白鹿記念酒造博物館)

 


 あまつ吉右衛門が事業を拡大するために、130万円の工費を投じて前浜町の一角に4500坪の大酒造蔵を建てようとすると、彼らはほとんど発狂同然の様を呈し、「世をあげて操短、減給、解雇、罷業、怠業等々深刻なる不景気風が吹きまくってゐるこの秋に、その不景気の一大原因たる酒を造る蔵を建てようとはなにごとぞ」と口角泡を飛ばさんばかりにわめき散らして、吉右衛門主宰の宴会に出席した人々を「亡国連合軍」と罵倒するに至っては、とても素面では読めない下りではないか。

 


 対立者の人格否定すら厭わぬ攻撃性は、なにやら昨今のヴィーガンに相通ずるものがある。

 


 もっとも、総ての記事がこんな調子なわけではないのだ。いいことを言っている奴もいる。


 衆議院議員長尾半平がこの八月号の巻頭言として寄稿した、「美名の下に暗影あり」という小稿など、非常な名文といっていい。

 

 

Nagao Hanpei

 (Wikipediaより、長尾半平)

 


 長尾はまず乃木希典の自決に触れ、その後群発した見るに堪えない醜状の数々を報告している。なんでも将軍の墓標に近き青山通りの小店には、当節乃木せんべいとか乃木まんじゅうとかいった品々が並び、この聖将の威光を借りて金儲けを企んだ輩が少なくなかったと。


 ――一連の事実から読み取れるように。


 兎に角よき名のあるところには、また必ず好ましからざる暗い影が伴うて、却ってその徳を傷つけることがあるものだ。我々が展開している禁酒運動にもどうやらその翳りが忍び寄りつつある、共産主義マルキシズムなど、危険思想の隠れ蓑にされぬよう、大いに警戒せねばならない――要約すればこんなところか。


 流石に後藤新平に見込まれて、鉄道省に引き抜かれただけはあり、よく事理に通じた忠言である。


 しかしながら同じ八月号の巻末に、「禁煙水」などという見るからに怪しげな広告が掲載されているのはどういうことか?

 

 

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「如何なるタバコ好きも禁酒水で二分間全く煙草嫌になる」と記してあるが、おやおや商品名は禁「煙」水ではなかったか。


 だいたい二分間だけ嫌煙家になったところで意味はなかろう。三分後にはもうケロリとしてまたぞろ紫煙をくゆらせているようではなにがなにやら分からない。


 それともこれは、効果が出るまで二分を要するという意味か?


 だとすればまことに都合のいい、そんな魔法の液体が、現代に伝わっていないのは如何にも不自然に思われる。畢竟「水素水」などと同様、ただの水を高価で売りつけるための方便ではなかったか。

 


 長尾の危惧が、さっそく現実になった形である。

 


 これ以外にも『禁酒之日本』を捲っていると、ソヴィエト連邦をして帝政ロシア時代と比べ、酒の害を根絶した点理想的な国家になったと讃美する記述に屡々出くわす。


 コミンテルンの公式発表を真に受ける、この連中のあどけなさよ。


 ソ連人民が如何に密造酒の製造に熱心で、場合によっては工業用アルコールを蒸留してまで酔いを求めたということに、彼らはとんと無知だった。それでこのような写真を載せて、

 

 

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「酒を飲まぬソヴエットでは、体育が盛んで、かうして婦人までが団体的に体操や競技をする」


 と浮かれているのだから幸せなものだ。どうもこの連中は酒の害を除こうとして、もっと悪質な「酔い」を引き込んでしまったようである。

 

 

 

 

  


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年俸一ドルの外交官 ―鮎川義介とスタインハート―


 鮎川義介訪独の旅から帰還して、そう日を置かぬうちのことである。


 駐ソ米国大使の首がすげ変った。


 新たにやって来たのはローレンス・アドルフ・スタインハートなる男。フランクリン・ルーズベルトとは大学に於ける同窓で、聞くところによると年に一ドルの給料でこの大役を請け負ったそうな。


「会ってみるといい。なかなか面白い野郎だぜ」


 とすすめてきたのが松岡洋右。これが契機きっかけとなって鮎川義介とスタインハートは、奉天にて二時間ばかりの会談を行うことになる。

 

 

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Wikipediaより、ローレンス・スタインハート)

 


 その間、鮎川にとって特に印象深かったのは、


「おれは、おやじからうけついだ財産をこれからロシアに行って全部使ってやろうと思っている」


 というスタインハートの大見得だった。


 アメリカにはこういう「型」の男がいる。伝統として存在している。


 最近では第45代大統領、ドナルド・トランプがそうであるし、カリフォルニア州知事時代のアーノルド・シュワルツェネッガーもまた同じ。後に鮎川が水力発電関連で接触する、テネシー川流域開発公社のデビット・リリエンソールに至っても、やはり年俸一ドルでアメリ原子力委員会の委員長職を引き受けた。


 一連の「型」の人物を、鮎川は「ダラー・エ・マン」と呼んでエライものだと感心している。


 世の中金を使わなければどんな仕事もろくろくできん、外交また然りだろうとかねがね松岡を突っついてきた鮎川だ。


 ――こうでなけりゃあならん。


 と、大いに意に添うものがあったのだろう。

 


 これに比べると日本では貧乏なのが外交官になるもんだから、おかみの機密費だけでは気のきいた仕事はできっこない。それどころか、近ごろはその機密費の上前をはねて、やめたときの貯えにするという殊勝なのも珍しくないとのこと。(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』163頁)

 

 

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松岡洋右鮎川義介

 


 こうした所謂「政治とカネ」の話柄については、若い頃から興味が強く、聞き耳を立てていた鮎川だ。


 特に総選挙の裏側で財閥が如何に暗躍したかは造詣が深い。


 なにしろ義兄に当たる木村九寿弥太三菱の総番頭を務めている。三菱が政党に選挙費用を融通する際、その業務を一手に担っていたのがこの九寿弥太ときているのだから、裏面の消息が筒抜けだったのも頷けよう。


 かつての大日本帝国で二大政党といえば政友会民政党で、前者を三井が、後者を三菱が支援していた。


 三井の側でその衝に当たっていたのがかの有名な団琢磨。木村と団は総選挙の開かれるたび一席設けて話し合い、両者同額の金を出すべく打ち合わせ、いつしかそれが一種のシキタリと化したらしい。


 鮎川が聞き出したとき、その額は五百万円に上っていた。


 当時の五百万円は、現在の貨幣価値に換算しておよそ二五〇億円に相当する。


 これだけの金が選挙のたびに政友・民政両党にそれぞれ流れ込むわけだから、財閥が政界に対して比類なき影響力を獲得するのも無理はなかろう。彼らとて、慈善事業で金を投げているわけではないのだ。見返りを期待する下心あってのことである。

 

 

Dan Takuma

 (Wikipediaより、団琢磨

 

 
 斯くの如き政界の現状を誰より嘆き、嘆く以上に憎悪して、血涙を流さんばかりになっていたのが尾崎行雄という男。彼はほとんど当たり散らすような剣幕で、


「政党の首班たる者は、ぜひとも汚職の訓練を積まねばならない」


 ということを、あらゆる場所で、表現を変えつつ人々の耳に吹き込んだ。


 皮肉であろう。

 

 咢堂らしい、あく・・の強い皮肉であった。

 


 政党の首領は、嫌でも応でも、資金を作らねばならぬ。実業に従事せざる政治家が、資金を得る道は、腐敗するより外にはない。政権及び党力を濫すれば、資金は作れるが、清廉潔白の道を踏んでは、作れない。而して金力がなければ、首領の地位を保つことは、絶対に出来ない。
 是れ如何なる清廉潔白の士と雖も、党首となれば腐敗せざるを得ざる所以である。(中略)金力が主として口をきく以上、立憲政治ほど、有害な制度はない。(『咢堂漫談』324頁)

 


 もし尾崎行雄が「ダラー・エ・マン」のことを知ったら、やはり手を打って喜びを露にしたことだろう。そしてお得意の毒舌で、日本が如何に遅れているかをさんざんにあげつらったに違いないのだ。

 

 

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 ローレンス・スタインハートは駐ソ大使に着任したが、そのほとんど直後に独ソ戦が勃発。遭難を避けるべく、モスクワからの脱出を余儀なくされる。


 おそらくは、「おやじからうけついだ財産」を使い果たす暇もなかったろう。


 その後はトルコ大使、チェコスロバキア大使、カナダ大使と所在を転々とするうちに、1950年3月28日、乗っていた飛行機が爆発・墜落して死亡した。彼の墓石は、アーリントン墓地の第30セクションに今もある。

 

 

アメリカ人が語る アメリカが隠しておきたい日本の歴史

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悪夢到来

 

 目を開き、枕から離れた瞬間異変を感じた。


 頭が痛い。


 鉄のたがでも嵌められて、きりきりと締め上げられているかのような痛みが走る。


 さてこそコロナか、インフルか――と嫌な想像が駆け巡り、大いに背筋を冷たくさせたが、そう間を置かずに違うと分かった。


 目が痒く、涙が溢れ、鼻水が溜まり、とどめに連発するくしゃみ――間違いない、花粉症の症状だ。

 

 

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 暖冬で飛散が早いと聞いてはいたが、まさかバレンタイン前から始まるとは。


 鼻が詰まると頭の回転が鈍くなり、読書の上にも障りが出てくる。文章を文章として認識できず、文字同士の接着が薄れ、ばらばらになって紙面の上を好き勝手に乱歩している感じがするのだ。何を言っているのかわからないかもしれないが、それこそ花粉の影響である。


 めしを喰うように本を読む私にとって、これほど辛いことはない。


 春をして地獄の季節と、一年のうちで最悪の時期と嫌忌する所以はここに在るのだ。総飛散量が少なめなのがせめてもの救いか。早く来た分だけ、早く過ぎ去ってくれればよいのだが。

 

 

アレルシャット 花粉 鼻でブロック 30日分

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鮎川義介のヒトラー評・後編 ―「今以て推服するところである」―

 

 鮎川義介はドイツに着くやいなやの素早さで、駐ドイツ特命全権大使来栖三郎ヒトラーとの会見を願い出ていた。


 ところが来栖の返事は芳しくなく、「成否は請け合えないが、なんとか手を尽くしてみよう」と言われたっきり待てども待てども音沙汰がない。


(無理があったか)


 繰り言になるが、このとき既に第二次世界大戦がはじまっている。


 ヒトラーの近辺がのびやかであった筈もなく、スケジュール表は数週間先までギチギチに詰まっていたとしても何ら不思議ではないだろう。そうした事情を想像する脳力を持っていたから、鮎川はべつに腹も立てない。


(まあ、仕方ない)


 潔く見切りをつけて、ぶらりとスイスに旅行した。

 

 

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 この永世中立国を足掛かりにイタリアへと南下して、更にここから隙を窺い、こっそりアメリ渡航する計画を練っていたときのことである。長らく連絡のなかった来栖から、だしぬけにヒトラーと逢えるぞ」との報せが舞い込んだのは――。


 こうなればアメリカ云々どころではない。風をくらってドイツに戻った。


 そして、1940年3月5日。折しも猛烈な吹雪に見舞われたベルリンで、鮎川はヒトラーと小一時間の会談を行う。


 場所は、総統官邸である。


 鮎川の言をそのまま借りれば、この官邸は「ドイツの他の建物がゴテゴテしているのと違って、日本式の簡素美を打ち出したスカっとしたものであった(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』172頁)


 鮎川はこの建物が、独裁確立後のヒトラーにより大幅に手を加えられ、以前とはまるで別種の趣に改造されたと知っている。
 そのため本人に逢う以前、未だ廊下を歩いている時分から、


ヒトラーとはただのドイツ種子たねではないらしい)


 と、ひどく良好な第一印象を抱いたという。これはむしろ、東洋的な感性に基き創られたものではあるまいか――。

 

 

Bundesarchiv Bild 146-1988-092-32, Berlin, Neue Reichskanzlei

 (Wikipediaより、総統官邸)

 


 鮎川義介の精神は、「簡明素朴」を愛するように出来ている。


 絵は、最低限の線で描くがよし。着色も無用、ごてごて顔料を塗りたくられた油絵よりも、墨絵の方が品がよく、見ていて胸が清くなる。


 この感性は食道楽にも反映されて、やたらと手を加えて出来上がる、こってりした支那料理や西洋料理に生涯好感を抱いていない。ただ、洋食では、牛肉をそのまま野焼きにしたステーキだけは称讃した。


 自然の持ち味をなるたけ崩さぬようにしなくば下品に堕すると言い放ち、酒粕をあぶったものを好物とした鮎川義介。そんな彼の感性は、ヒトラーのセンスにどこか共鳴するものを覚えた。


 白く染まる窓外を横目に、鮎川の鼓動は次第次第に高まっていった。

 

 

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 その部屋に居合わせた人物は五名


 ヒトラー、鮎川は当然として、侍従が一人にベルリン大学日本語教授シャール・シュミットの顔もある。一橋商大でドイツ語を教えた経歴を持つシュミット教授は、通訳として場に臨んでいた。


 誰か他にもう一人、何者かが居合わせた筈だがこの「誰か」に関して鮎川の記憶は曖昧である。


 あるいはヒトラーの印象の強烈さに、覆い隠されてしまったのかもしれない。鮎川はまず、方々に於ける工場見学につき各界からたいへんなもてなしを受け、その間少しも不快な思いをしなかったことへの謝辞を述べた。


 事前に立てた予想では、これに関連してヒトラーも大豆の話を持ち出すものとし、密かに身構えていたのである。


 ところがヒトラーは鷹揚にこれを受けるのみで、大豆の「だ」の字も口に出さない。


(どういうわけだろう)


 ここで一つ鮎川は、威力偵察を試みた。敢えて自分から大豆の件を切り出して、


「自分は満洲の農業部門には直接関係ないけれども、大豆を少々お土産として用意している。ところが望み手が多過ぎてどう配分したらよいか迷っている、総統の意見を伺いたい」


 この質問でヒトラーを揺らし、本音を引き出そうとしたのである。
 しかしながらヒトラーは、ここでも鮎川の予測を超えてきた。


「そんなことは問題じゃない」


 と、取り合う気配を見せないのである。
 やがて話が国の経済に及ぶに至って、初めて彼は語調を高めた。

 


「国民の経済がよくなければよい政治は行えない、即ち経済が政治をリードするという一般の通説には自分は承服できない、否その逆が真理だと信じている。即ち、政治が国民の経済を左右する、平たく言えば正しい政治を布けば経済は自らよくなるものだ(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』173頁)

 


 この持論を聴くに及んで鮎川は、


(これはいよいよ東洋的だ)


 官邸の造作から受けた印象を一段と濃くした。アドルフ・ヒトラーとは何者か、鮎川が真に理解したのはこのときだという。

 

 

Bundesarchiv Bild 183-B24543, Hauptquartier Heeresgruppe Süd, Lagebesprechung

 (Wikipediaより、作戦指揮を行うヒトラー

 


 次いでヒトラーは、鮎川が永遠に記憶する発言をした。

 


「自分は同志と旗挙げしてから僅々二十年だが、今ドイツ国内の政治(経済を含めた)に関する限り何でも日本に引けをとらないが、唯ひとつ絶対に敵わないものがある。それは日本の皇室だ。これはドイツだけでない、世界のどの国もが絶対に真似ができない。どんなに傑出したルーラーが出ても、一代や二代であれは作れるものじゃない。五百年や千年の伝統を必要とする、言わば日本の皇室は日本だけがもつ至宝である。誠にもって羨しい」と繰り返し繰り返しいうんだ。(174頁)

 


 偶然か計算か、いずれにせよヒトラー日本人の勘所を完璧に衝いた。


 鮎川が一大感動を発したのは言うまでもない。政治の第一は道路だという原理についても、彼の口から直接学んだ。


 戦後、鮎川は道路計画調査会を立ち上げて、幹線道路網設備案・全国道路整備計画等々と画期的な仕事を次々こなし、日本道路建設の基礎を築き上げるに至るのだが、その「根」はまさにこの瞬間、ヒトラーから受けた啓発にある


 ヒトラーのセンスは鮎川義介を憑代に、日本の道路上に受け継がれたというわけだ。

 


 後世ヒットラーに対してはもとより色々の批判はあるが、彼の政治哲学に関しては今以て私の推服するところである。(175頁)

 


 斯くの如き一文で、鮎川はヒットラー総統」と題された、一連の小稿を閉じている。

 

 

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 さりげなく書かれているが、これはとんでもないことだ。


 現代社会に於いてすら、アドルフ・ヒトラーは偉大だった」などと公言すれば、社会的制裁は免れまい。ましてやこれが記されたのは、昭和三十八年三月のこと。敗戦から20年も経ておらず、この時期のヒトラーの扱いときたらもはや人間のそれですらない。


 彼をして人格を備えた一個の人間と認めるだけの心の余裕が、まだ人々に無かった時代だ。


 狂人、悪魔、血を好む鬼、人の皮を被った獣――そのあたりがまあ妥当なところで、ややもすればこのとき植えつけられたイメージを、未だに信じている者がいる。


 そのような環境下にあって、あからさまなヒトラー擁護を展開する。


 凄まじい胆力としかいいようがない。


 ましてや鮎川義介と言えば、戦犯容疑を受けて巣鴨収容所に拘置――当人はこれを「拉致」と呼んだが――された男だ。


 そのような目に遭わされてなお、己の心を枉げようとしない。「壮」と感じたモノを誰憚りなく「壮」と言う。なんと清々しき漢であろうか。

 

 

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(家族写真。この二日後に巣鴨に「拉致」)

 


 鮎川義介昭和四十二年二月十三日、胆嚢炎の手術から合併症を惹き起こし、急性肺炎で死亡した。


 享年、86歳


 大往生といっていい。


 しかしながら彼だけは、あと三十年も生かしておいて、思う存分仕事をさせてみたかったものだ。


 鮎川自身もそのつもりで満々だった。

 


 私はこの十一月六日で七十九回目の誕生日を迎えたが、近頃とても命が惜しくなってきた。還暦までは時間のたつのは別段気にもならなかったし、若いときは時間などはただみたいに感じていた。これは私だけに限ったことではない。なんとなく長生きしたいのは万人の通有観である。
 ところが、私の長生きしたいのは「なんとなく」ではない。いわくがある。それは気力と体力の下り坂は幸いにゆるやかであり、智力の方は、まだ峠を越していないので、この調子をくずさずに、その期間に世のためになる仕事を精いっぱいやってみたい欲望に駆られているからである。(83~84頁)

 


 事実、鮎川の頭脳は衰弱する肉体とは裏腹に、少しも鋭敏さを曇らせなかった。


 それにもまして、この情熱の滾りようときたらどうであろう。なんと若々しいことか。鮎川義介という人物は、いくつになっても体の何処かに少年の心を残していたのではなかろうか――それこそ臨終の刹那まで。


 つくづく以って、その早世が惜しまれる。

 

 

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鮎川義介のヒトラー評・前編 ―重工業王、ドイツへ渡る―

 

 鮎川義介に関しては、わずかなれども以前に触れた。


「正三角形をフリーハンドで描けなければ、絵を描く資格がない」と変なことを言い出して、事実そのためにのべ三万枚もの紙を使った人物である。

 

 

 


 奇妙人といってよく、しかしこの奇妙人こそ、あの日産コンツェルンを一代にて築き上げた戦前日本の重工業王に他ならない。


 ――その鮎川が。


 ドイツ第三帝国総統、アドルフ・ヒトラーに面会したのは1940年3月5日のことだった。

 

 

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『百味箪笥 鮎川義介随筆集』より、晩年の鮎川義介

 


 順を追い、事のあらましから述べるとしよう。


 当時の鮎川の肩書は、満州重工業開発株式会社初代総裁。東条英機岸信介松岡洋右などと組み、どこどこまでも曠野の広がる彼の地を以って一大工業地帯に変ぜしめんと日夜精力的に働いていた時分であった。


 そんな鮎川義介にとって、ABCD包囲網ほど迷惑だったものはない。否、迷惑を通り越して死活問題ですらある。なんとなれば鮎川が、満州の重工業化に使っている機械資材は、そのほどんどをアメリカに仰いでいたからだ。


 そのアメリカとの通商が切られた。


 手を打たなければ、いずれ満業は干上がってしまう。


 そう考えていた矢先、新京駐箚のドイツ公使、ワグネルから打診があった。


「それならば我々が新たな活路になりましょう」


 是非とも一度、本国を訪問してみて下さい――そのようにすすめてくるのである。


 この提案に、鮎川は乗った。

 

 

Manchukuo Hsinking avenue

 (Wikipediaより、新京の街並み)

 


 で、1939年の暮れごろに、彼の地の土を踏むわけである。


 行って早々、鮎川は驚きに目を白黒させねばならなかった。彼を待ち受けていたものは、まるで国賓を迎えるような、下にもおかぬ手厚い歓待だったからだ。


 重要機密に指定されているはずの軍需工場、特に航空機の最新工場も鮎川が行けばたちどころに総てのカーテンを取り払い、隅から隅まで観覧に具した。その噂を聞きつけて、三菱商事の某技師が同行を哀願して来たほどである。


 彼はメッサーシュミットの工場を一目見るべく命を受け、もう半年も現地に滞在している人物で、その間絶えず交渉を続けてきたものの、いつも門前払いを喰らわされてばかりいる。ほとんどヤケになりかけていたとき、鮎川が来た。


 地獄に垂れ下がる蜘蛛の糸を発見したカンダタならば、あるいは彼の心境に共感できたかもしれない。


「どうか私を随員に」
「よかろう」


 鮎川は、二つ返事で受け入れた。何食わぬ顔で連れて行ったところ、既に彼と顔見知りになっていた門番が、こいつめ性懲りもなくまた来たかと彼をつまみ出そうとした。
 その挙動を制止して、鮎川は案内役の主任航空大佐をかえりみ、


「ドイツがこの方面の技術に如何に進歩しているかを充分日本に知らせた方が、日独提携の上に大いにプラスになるからどうか聴き入れてやって欲しい」


 という意味のことを懇々と説いた。
 この航空大佐は物の分かった人物で、即座に彼の同行を許してくれた。

 

 

Bundesarchiv Bild 101I-662-6659-37, Flugzeug Messerschmitt Me 109

 (Wikipediaより、メッサーシュミット Bf109)

 


 極楽に紛れ込んだ僧侶のような顔をして、工場内を穴のあくほどつぶさに眺め、


「おかげで半年の苦労が報われました」


 と両手を合わせ、まるで神でも拝むような格好で鮎川に礼を言ったこの技師の名は、残念ながら伝わっていない。

 


 鮎川がこれほどの特別待遇を受けたのには、むろんのことわけがある。

 


 ドイツは当時、大豆を求めること熱烈で、ほとんど喉から手が出んばかりであった。


 大豆は油脂の原料になるし、あぶらを絞ったその粕が、鶏や牛の飼料にもなる。まこと貴いこの作物が、しかしドイツの周囲では、ルーマニアから年十万トンを僅かに産するに過ぎぬのだ。


 そこで満州が浮上してくる。


 彼の地が豊かな大豆の産地であることは、夙に知られたことだった。


 ドイツとしてはこの満州から、なるたけ多くの大豆を輸入したい。


 今、満州に巨大な影響力を保有する、鮎川義介がやって来た。ドイツ人としては是非ともこの男から、大豆に関して色よい返事を引き出したい。その願望が人から人へと伝わるうちに次第に潤色されてゆき、終いには鮎川義介と言えば、大豆の一万トンや二万トン程度、その気になればいつでもポケットから取り出せる、一個の巨人であるかのように印象されるに至ったらしい。

 

 

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 何処の工場を訪ねても、見学の後の会食の席で必ず豆の話になった。


 ドイツ人が大豆を求める熱烈ぶりは、さながら「男が美人を欲しがるような風情」であって、その供給元と目されている鮎川に媚態を尽くすのも無理はない。


 実像と風聞のあまりの乖離になにやらくすぐったい感じもしたが、この誤解はまず以って好都合と言えたので、鮎川も敢えて解こうとしなかった。このあたり、流石に彼はチャッカリしている。


 鮎川が記憶している限り、彼の背後に大豆を見なかったドイツ人は一人しかいない。――アドルフ・ヒトラー、ただ一人しか。

 

 

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