穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ハワイ王国と日本人 ―『日本魂による論語解釈』和歌撰集・番外編―

 

【不如諸夏之亡】


 詳しくは、「夷狄之有君、不如諸夏之亡也」。夷狄の君有るは、諸夏の(君)亡きが如くならず――夷狄でさえ君主を戴くこと、その重要さを心得ており、みすみすそれをぶち壊しにしてしまった我が中華のようではない。


 もっともこの項には別の解釈も存在する。「夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かずなり」と読み下し、たとえ君主不在の状態でも諸夏――中華は君主の治める夷狄に勝る、上下の真理は絶対にして揺らぐこと無し、と主張しているとするものだ。


 が、『日本魂による論語解釈』では別項にて孔子の発した「子欲居九夷」――いっそのこと東の九夷の国に渡りたい、弟子は野蛮できたなくどうしようもない場所だと止めるが、なんの、わしのような君子が住んでいて、いつまでも野蛮なままであるものかよ――という言動を根拠とし、「不如諸夏之亡」はあくまで乱れに乱れた自国の現状を嘆くものだという、前者の解釈を採っている。

 

 

中華とは いへども今は 花もなし
吹き散らされし 芥子坊主けしぼうずかな
(太田覃)

 
 中国でケシといったら連想されるものは一つしかない。


 アヘンである。


 快楽を齎すかの煙が猖獗を極めたことにより、見るも無惨に荒れ果てた清朝末期の有り様を嘆いた歌と見ていいだろう。

 

 

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国亡び 君さすらひて ももときの
御園の春を 鳥ひとりうたふ
(平田長)


 こちらはハワイにて作られた歌。「君」とは1893年の革命により玉座を追われ、街外れの小さな民家に移されたリリウオカラニ女王を指しているだろう。


 一字一句、亡きハワイ王国への同情心に満ちている。


 これはなにも平田長に限った話ではなく、当時の大日本帝国で、ハワイ革命のニュースに不快感を催さなかった臣民は絶無に等しいといっていい。皆、こぞって旧王家に同情し、裏で糸引くアメリカを憎んだ。


 彼らの脳裏には、明治十四年の三月に本邦へと来遊せられた前ハワイ国王・カラカウアの雄姿が、未だに色濃く印せられていたのである。なにしろ日本国開闢以来、外国の国家元首を迎えるなど初めてのこと。そう簡単に忘れられる筈がない。

 

 

Kalakaua (PPWD-15-4.018)

 (Wikipediaより、カラカウア)

 


 当時皇室ではカラカウア王を迎えるに浜離宮内の延遼館を宿に充て、しかも山階定麿宮王――後の元帥海軍大将東伏見宮依仁親王――が足繁く通い、王の話相手を務めたという。


 カラカウア王は若干15歳のこの皇族の才気煥発たる立ち居振る舞いに驚き、かつ敬服し、明治天皇に対して「彼を養子としてハワイの王位を継がせたい」と申し入れたほどである。もっともこの提案は、日本政府に断られ、実現することはなかったが。


 とまれ、こうした王の為人ひととなりに国民が感激しないわけがない。


 ましてや当時は明治十四年。日露戦争どころか日清戦争さえ未経験の日本は、己がどれほどのものか知らない、自分で自分の実力を測りかねている状態であり、にも拘らずここまで買って・・・くれた・・・王に対して、好意以上のものを抱いた。

 


 ――そのカラカウアの王国が。

 

 

Hawaje-NoRedLine

 (Wikipediaより、ハワイ衛星写真

 


 奸佞邪智なる白人の魔手に脅かされ、いやもうほとんど奪取されんとしているのである。


 悲憤慷慨の旋風が巻き起こるのは当然だった。


 その意気が露骨に顕れたのが、世に云うところの礼砲問題」であったろう。


 1893年の革命時点でハワイには、二万五千人もの日本人が既に居り、彼らの安全保障の為に日本政府は軍艦を派遣。「金剛」「浪速」の二隻がホノルルへ入港するに至ったのである。


 到着後、「浪速」艦長・東郷平八郎海軍大佐は総乗員を艦橋下に集め、次のように訓示した。

 


「一同へ一言する。改めて申さずとも、諸氏に於てはすでに十分の覚悟があると思ふが、本艦が当地に碇泊してをるのは、皇国領土の一部がここへ延長したと意義を同じくするものがあることを忘れてはならない。この観念よりして、我々の責任は一層重大となるのである。従って今後変乱等の有無に拘らず、我々の一挙一動は直ちに御国の品性にまで影響を及ぼすものであることを覚悟し、軽挙妄動を慎むと同時に、いよいよ決行の場合には、少しも躊躇することなく、断乎として進むべきに進み、以て皇国武人の本領を充分発揮せねばならない」(昭和三年刊行。小笠原長生著『鐵桜漫談』9~10頁)

 

 

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 今や自分達を通して、日本国が測られている――。


 それを自覚して寸時たりとも忘れるなと部下に厳命した東郷が、しかしハワイ仮政府――ありようはアメリカの傀儡政権――からの礼砲に関する申し入れがあった際、

 


「仮政府と自称するやうな曖昧なものの大統領とかに対して、礼砲を放つなど以ての外だ。少しも懸念するに及ばぬ、断乎として謝絶するがよい」(23頁)

 


 このように答えてのけたことは重大だ。刹那的な意気でなく、ぶの厚い、余程の覚悟があったとみていい。


 このため仮政府大統領ドール氏が米国旗艦ボストン号を訪問した際、短艇に乗る彼に対して各国軍艦は21発の礼砲を撃ち鳴らしたが、独り日本の軍艦のみは終始沈黙を保つという凄まじい光景が現出した。


 礼砲問題はこの一回のみにとどまらない。翌1894年1月17日には仮政府建設一周年の式典のため、その外務大臣より在港の各国軍艦に向かい、

 


「満艦飾を施したる上、正午には礼砲を放ちて祝意を表されたし」(25頁)

 


 との依頼が通達されたが、やはり東郷平八郎は、


「お断りする」


 とにべもなく撥ねつけ、ついにホノルル碇泊中、一発の祝砲をも撃たずに通してのけたということだ。
 これが日本の意志なりと、強烈に表明してのけたのだろう。

 

 

TōgōHeihachirōUniform

 (Wikipediaより、東郷平八郎

 


 ついでながら東郷を艦長に戴く「浪速」には、かつてカラカウア王と語らった山階定麿宮が、小松若宮依仁親王と名乗りを改め乗船しておられたそうな。

 

 縁とは、まことに奇しきものだ。

 

 

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ドイツ精神と猫のエサ

 

 昨日の記事で、せっかく尾崎に触れたのだ。
 ついでにこのことも話しておこう。やはり『咢堂漫談』中の一幕である。


 欧州大戦以前――すなわち帝政ドイツ時代に於いて、ベルリンからおよそ300キロ南東に位置するブレスラウ市で起きた事件だ。

 

 

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(ブレスラウ)

 


 この街には元々官立病院武器庫とがそれぞれ設置されており、これらの施設は「官」の統制下にあるだけあって、毎年その所有財産目録経費要求予算書中央政府へ差し出すのが決まりであった。


 しかるに某年、両施設が提出した財産目録中には、共に「猫一匹」の記述があったにも拘らず、その飼養料――すなわちエサ代――を請求したのは病院側のみであって、武器庫側の予算書には「餌代」の「エ」の字も発見できなかったのである。


 この差異を、政府は殊の外重視したらしく、ブレスラウ市に説明を求めた。すると返ってきた答えというのが、

 


 武庫の方は、鼠が沢山居るから、飼養料は要らないが、病院には、鼠が居ないから、飼養料が要る(『咢堂漫談』433頁)

 


 この説明に中央政府は満足し、一連の書類は監督官庁を無事通過、許可に至ったそうである。

 

 

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 英米びいきの咢堂は、この話をドイツ人の脳味噌が如何に規則ずくめで重箱の隅を突っつきまわさずにはいられない、杓子定規の化身と呼ぶべき代物であるか説明するための例として引用している。一事が万事、こんな堅っ苦しいことばかりやっているから、彼らは戦争に負けたのだと。


 しかし猫といういきものをこよなく愛する私のような人間の目には、このエピソード、ドイツ人の愛嬌が至る所に充実していて、まことに微笑ましく映る。


 そうだとも、猫にまつわることどもは決して些細な問題ではない。その健康に配慮しないなど人道に悖る。追及は、あって然るべきだった。

 

 

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 ブレスラウ市は第二次世界大戦における独ソ両軍の激戦地となり、歴史地区の大半が破壊され、戦後はポーランドに組み込まれている。現在の名は、ヴロツワフだ。


 2017年には、この地で第10回ワールドゲームズが開かれている。

 

 

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『日本魂による論語解釈』和歌撰集 ―尾崎行雄と「事君尽礼」―

 

【事君尽礼】


 詳しくは、「事君尽礼、人以為諂也」。君につかふるに礼を尽くさば、人以ってへつらいと為すなり。


 礼儀正しくふるまう姿を斜めに見、なにをおべっか使っていやがる、鼻持ちならないゴマすり野郎めと冷笑する手合いというのは確かに居る。
 だからといってこんな思潮が主流となっては世も末だ。真面目で忠実な勤め人が、しかしその美質ゆえに公然嘲りを受けるなど考えるだに胸糞が悪い。そんなものはどう考えても、健康な社会とは言えないだろう。


 孔子も同意見であったればこそ、弟子たちに対してこのように、態々語り聞かせたのではなかろうか。

 

 

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「礼」に関してはトマス・ホッブスリヴァイアサン中で言及していて、

 


 話をかわすにあたって敬意をもって臨み、面前に出るにあたって謙虚な、節度ある態度を保つならば、相手を持ち上げることになる。それは、相手に不愉快な思いをさせることを恐れているという気持ちを表明しているからである。話しかける態度が軽率であったり、相手の面前で事をおこなうにあたってぶしつけで投げやりな、厚かましい態度をとったりするなら、それは相手を貶めることになる。

 


 彼らしい乾いた理性のもと、その効能を説いている。

 

 

君思ひ 誠尽すを 何故に
へつらひすると 人の見るらむ
(詠み人知らず)

何となく 語らひ出づる まめごとも
笑ひ崩すは 今の世ぞかし
(大隈言道)


 大隈言道は江戸時代後期の歌人野村望東尼の師ということでその名を聞いた方も居るかもしれない。
 そう、高杉晋作の最期を看取り、伝説的なあの辞世、

 

おもしろき こともなき世を おもしろく


 に、

 

すみなすものは 心なりけり


 の下の句を継いだ彼女の師だ。

 

 

Nomura Bōtō 01

 (Wikipediaより、野村望東尼)

  


 この男も心魂傾け絞り出した言の葉を、


「よせよせ、なにを真面目ぶっていやアがる」

 

 と一笑に付された経験があるのやもしれない。 

 

 

天つ神 わがしたごころ しろしめす
嘲るものに あざけらしめよ
(詠み人知らず)

 

 


 ――ところで、この「事君尽礼、人以為諂也」。


『日本魂による論語解釈』には無い記述だが、私はここに尾崎行雄の、

 

 

我がつとめ 人な笑ひそ 大君の
御浜清めて 今日もくらしつ

 


 という歌を、是非とも加え入れたく思う。

 
 尾崎――咢堂がこの句を詠むに至った経緯はこうだ。おおよそ昭和の初めごろ、日本列島の海浜という海浜は、ことごとく「掃き溜め」の観があった。
 これは比喩でもなんでもなく、文字通り周辺に住む人々がこぞってゴミを持ち込むのである。

 


 清潔なる海浜は、人類の歓楽場であり、精神的肉体的快楽の資源である。然るに我が国人は、此処をも掃溜に代用し、否な、掃溜にも捨ることを厭ふ所の猫犬の死骸、又は便所の破損物等、之を筆にするすら嘔吐の種子となるべき汚穢品の捨場所とする。(中略)此状態は、全国到る所、ぼ同様だが、周囲の人口が、稠密なだけ、東京湾に於て、最も太だしきものを見る。(昭和四年刊行『咢堂漫談』309頁)

 

 

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東京湾

 


 東京湾「ヘドロの海」と、不潔な海の代名詞のようになったのはここ2・30年のことでなく、1930年前後には既にその兆候が見られたようだ。

 根は、よほど深いといっていい。


 咢堂は更に筆を進め、

 


 今後沿岸の人口益々増加して、之を掃溜以上の掃溜に代用する以上は、遂に海水腐敗して、悪臭鼻を衝くに至るであらう。大いに沿岸住民の健康を害するに至るであらう。(310頁)

 


 と、人々に強く警告している。この記述は後に、預言と見紛うまでの精度で以って的中した。


 が、その結果を伝えたところで咢堂は喜ばないに違いない。彼はそんな未来を避けしむるべく態々警鐘を鳴らしたのであり、東京湾の自然環境を守るため、然るべき機関を設置して人心の指導に努めよとしきりに繰り返しているのだから。


 また、彼は口舌のみの輩に留まるのをよしとしなかった。行政の大なる働きを督促する一方、小なりと雖も自分にも何か実行可能なことはないかと模索して、その結果先の歌に繋がるのである。


 咢堂は、ひとり海辺でゴミ拾いに従事しだした。

 


 附近の住民は、わざわざ塵芥汚物を携へて、海浜に捨てに来る。予其の人に向て「水際まで運ばずに捨ててくれ、私が焼却してやるから」と求めても、中々承知しないで、御苦労にも、波浪の寄せ来て、洗ひ去る所まで、持って行って捨てる。予に焼かせるより浪に浚はせる方が簡便だとでも思っての事だらう。(309頁)

 

 

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 胡散臭い奇人扱いされようと、咢堂はその行為を投げ出さなかった。


 ただひたむきに、みずからの力を尽くし続けた。


「事君尽礼、人以為諂也」の見本であり、模範解答でもあるだろう。

 

 

忠君の 道遠からす 難からす
ここにもありと 芥を焼きつつ

 


 弾劾演説よりもこの一事を以ってして、彼はその名を知られるべきだ。

 尾崎行雄、まことに強き漢であった。

 

 

人生の本舞台

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『日本魂による論語解釈』和歌撰集 ―文献不足・壁の中の書―

 

【文献不足】

 


 詳しくは、「子曰、夏禮吾能言之、杞不足徴也、殷禮吾能言之、宋不足徴也、文献不足故也、足則吾能徴之矣」


 孔子夏の国の礼について、十分語ることが出来た。しかしながら夏の後に興った杞国については、詳しく検証することが出来なかった。


 また殷王朝の礼についても彼は通暁していたが、殷の後に隆盛したについては、やはり確かな研究を施せなかった。


 これみな今日に伝わる文献が、圧倒的に不足しているゆえである。もし文献が十二分に保全され、今日に伝わっていたならば、わしはそこから更に知見を深めることが出来ただろうに、惜しいかな――と、大意をまとめればこんな具合か。

 

 

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孔子

 
 まこと、書物とは貴いものだ。孔子の嘆きはもっともである。

 

 

からやまと かしこきあとを ならへとて
記せるふみぞ よろづ代のため
霊元天皇

いにしへの 文見るたびに 思ふかな
己が治むる 国はいかにと
明治天皇


 明治十一年の御製である。


 陛下の御齢、26歳前後であろうか。


 西南戦争が勃発し、西郷隆盛なる巨星が堕ちたその翌年。若き陛下が如何な想いでこの歌を詠んだか、その胸中に思いを馳せると、おのずと襟を正したくなる。

 

 

Meiji emperor ukr

 (Wikipediaより、明治天皇

 

 

古の かしこき道を 一すぢに
文見て国は 開きますらむ
岩倉具視

上つ代に ものせし仮字の ちらし書き
散り失せし事の 惜しくもあるかな
田中光顕)

見る度に 老の涙を そそぐかな
昔の人の 筆のすさびに
新続古今和歌集

 

 

【壁の中の書】

 


 上記に於いて杞や宋の文献不足を嘆いた孔子。そんな彼がみずからの死後、初めて中国全土を統一した秦の始皇帝の手によって、己の教えが記された書やそれを信じる学者たちが次々抹殺されたと知ったら、果たしてどんな顔をするであろうか。

 

きついもの 四百余州に 本がなし


 とか、

 

穴の中 これがほんとの シン真・秦の闇


 とか川柳子に諷された、悪名高き焚書坑儒のことである。

 

 

Qinshihuang

 (Wikipediaより、始皇帝

 


 この大弾圧の真っ只中で、しかし文献の貴重さを知る者たちは、なんとかこれを後の世代に繋がんと、実に涙ぐましい努力を重ねた。その結果、題に掲げた


――壁の中の書

 

 という言葉が生まれたわけだ。


 焚書坑儒の狂風去って久しい漢代のあるとき、孔子の旧宅の壁の中から、『古文尚書『古文孝経』といった書物が発見されたという故事である。
 これを題材にした川柳というのも数多い。

 

 

始皇帝 壁の中には 気がつかず

秦の闇 魯国の壁で 明るくし

何だかと 左官論語を 目附だし

壁にされ ても末世まで 書は照らし

壁やれて 野暮な理屈が 生れ出で
 

 

史記 全11巻セット (小学館文庫)

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『日本魂による論語解釈』和歌撰集 ―巧言令色・吾日三省―

 

【吾日三省吾身】


 詳しくは曾子曰、吾日三省吾身、 為人謀而忠乎、 与朋友交言而不信乎、 伝不習乎」
 孔子の高弟曾子という人物が居た。

 

 

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曾子

 

 

 彼は日に三度、欠かさず我が身を振り返ったという。即ち、


一、人の為に真剣に物事を考えてあげられただろうか。
二、朋友に対して誠意をもって付き合えたろうか。
三、なまっかじりの知識を弟子に教えなかったろうか。

 

 の三点についてだ。


 書店三省堂の名の由来にもなった、かなり有名な一節である。
 それゆえか、『日本魂による論語解釈』で紐付けされている歌群も、高名な人の作品が多い。

 

 

日に三度 身をかへりみて いにしへの
人の心に ならひてしがな
昭憲皇太后

日に三度 おろかなる身を 省みて
仕ふる道も ただ君のため
宗良親王

暁の ねざめにせめて 省みよ
日に日に三度 かへりみずとも
徳川治貞

朝な夕な 三度己を 省みて
身のたしなみを おこたるな人
(荒谷翠嶺)

 

 

Empress Consort Haruko

Wikipediaより、 昭憲皇太后、1872年撮影)

 

 

【巧言令色矣鮮仁】

 
 こうげんれいしょくすくないかなじん。
 口先ばかり巧くして顔面いっぱいに愛想を浮かべ、やたらと媚びへつらって来るような輩は、その実「仁」から最も遠いところにいるものだ。


「仁」についての詳述は、後に譲ってここでは触れないことにする。

 

 

人をよく 言ふは利益の 手前なり
(柳樽)

あの聲で とかげ食ふか 時鳥ほととぎす
(其角)

世の中は 狸狐の ばけ比べ
(川柳)

世の中は 一重の皮に 迷ふなり
ひんめくり見よ 美女も醜女も
(詠み人知らず)

素麺冷食、涼しいかな縁
(詠み人知らず)


 なんのことはない、駄洒落である。
 孔子様のありがたいお言葉も茶にしてのける江戸っ子の意気、決して不快なものではない。

 

 

渋沢栄一「論語」の読み方

渋沢栄一「論語」の読み方

 

 

 

 


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『日本魂による論語解釈』和歌撰集 ―孝道編―

 

 

 論語は天下第一の歌書なり、歌を詠まんと欲せば、先づ論語を読むべし。

 


 江戸時代後期の歌人香川景樹の言葉である。


 景樹に限らず、難解な哲学書を解読するにうたごころ・・・・・を以って鍵と為し、更には噛み砕いた内容を、五・七・五の形式に昇華させる者とて珍しくない。


 かの生田春月もその一人だ。彼はツァラトゥストラかく語りき』フリードリヒ・ニーチェ一大歌集と看做し、豊かな詩的感性なくしてこれを理解するのは不可能であると判断している。


 そして今、私の手元に置かれている四冊の書。

 

 

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『日本魂による論語解釈』というこれら和綴じの古本を著した伊藤太郎なる人物も、どうやら景樹や春月と、同種の男であったらしい。


 上は歴代天皇陛下の御製から、下は市井の川柳子まで、膨大な数の和歌を蒐集し、論語各章の事心ことのこころに則って分類し直す――それこそ伊藤が本書の中で成した事業の一つである。


 その中から、更に私の琴線に触れた作品群を厳選してお目にかけたい。暫くの間お付き合いいただければ幸いである。

 

 

【孝道】

 

 

産んだ子に 教へてもらふ 親の恩
(柳樽)


 育てる番になって、自分が如何に手厚く育てられたか思い知る。

 

 

送り火は 消えても消えぬは 思ひかな
(柳樽)

秋の夜や もむも楽しき 親の肩
(虚白)

心して 見よや昼寝の 父のしわ
(詠み人知らず)

 

子に運ぶ 餌に疲れけり 親雀
(詠み人知らず)

不孝もの 兎角難題 親につけ
(詠み人知らず)


 親のすねかじりも、骨まで噛んで髄を啜ること無きように。

 

髪のはし 手足の爪の さきまでも
親のかたみぞ 我儘にすな
(糟屋磯丸)

父母も 其の父母も 我が身なり
我を愛せよ 我を敬せよ
二宮尊徳
 
小学校の校庭で、いつも薪を背負いながら書を呼んでいた金次郎。
 
 
音も無く 文字も無けれど 天地あめつち
書かざる経を くりかへしつつ
 
 
 これも彼の作品だ。いやはや像になるだけのことはある。経世家としてのみならず、歌人としても、彼の資質は並以上であったろう。
 
 
敷根小学校跡の二ノ宮金次郎
Wikipediaより、コンクリート製の二宮金次郎像) 
 

 実際問題、自然の齎す感化は無限に等しい。しかしながらそれを汲み取れるようになるには、よほど心を磨かねば駄目だ――それこそ明鏡と見紛うまで。

 刻苦精錬の果てに、尊徳はそれを獲得したに違いない。なんとなれば、彼は天才というよりも、尋常ならざる努力の人であったのだから。
 
 
ツァラトゥストラ (中公文庫プレミアム)

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永遠に忘れじ、志田周子

 

 村人の感情面以外にも、志田周子の悩みの種は多かった。
 無数に及んだといっていい。今回は、それらの中でも大粒のモノを点描してみる。


 まず真っ先に挙げられるのは、彼女自身の医師としての未熟さだろう。東京女子医専卒業後、二年あまりにわたって今村内科に勤務したといえど、それはあくまで「助手」としての経験で、やや乱暴な言い方をすれば「上役」である今村医師の指示に従って動いていたまでのことであり、自主的な判断を下す余地に乏しかった。


 それが大井澤村に赴任するや、一転して診療所の最高責任者である。


 勝手の違いに困惑しないはずがなかった。

 


「なにしろ、はじめはずゐぶん間誤つきましたわ。器具が不揃ひな上に、薬の調合までやるんでせう。処方は書けても、実際の調合となると、からっきし駄目なんですの。
 いちどなんか、ロテッキスに10Cと書いてあるもんですから、十倍にうすめるのかと思ったら、十倍にうすめてあるからその十倍を使へ、といふんでせう。おどろきましたわ。ほんとに机上の学問と実際は、違ふもんですわね」(『甦へる無醫村』158頁)

 

 

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 福岡隆との対談でしみじみ語った周子だが、これはその種の苦難をさんざ・・・乗り越え医師としても人間としても成長できた昭和十八年の彼女だからこそ醸し出せる余裕であって、赴任当時はそれどころではなかっただろう。


 なにせ、まだ25歳のうら若き身だ。


 医師としての自信が揺らぎ、心が折れそうになって当然である。福岡隆もそのあたりに思いを馳せて、

 


 ほとんど自給自足といってもよい診療所のことである。科学に絶対の信頼を置いてゐただけに、周子さんの悩みは相当深刻なものがあったにちがひない。(159頁)

 


 と、内心ひとりごちている。


 そう、「ほとんど自給自足といってもよい診療所」


 次に挙げるべきはまさにこの、施設自体のお粗末さであるだろう。

 

 

 


 大井澤村の診療所について私は以前、上の記事にて父親である志田荘次郎翁が500円を投入し、「診療所と名乗る上で最低限必要な設備を整え」たと書いている。


 その記述に間違いはない。


 が、あくまでも、最低限度は最低限度。女子医専付属の先進的な病院で研究に当たっていた周子の目には、いかにも見劣りするものばかりであって、「器具といへば玩具にもひとしく、もとより顕微鏡などといふ気のきいたものがあらうはずもない(158頁)というのが実情だった。


(いったいこれで、どうしろというのだ)


 答えは一つ、どうにもならない。


 治療法を知っていながら、しかし器具の不全のために手の施しようもない患者の群れが、周子の心を無惨に抉った。


 そういう場合は結局のところ患者を橇にでも乗せてやり、下界の専門医のところまで引っ張ってゆく以外に術がない。


 が、なにぶん山道である。


 快適な旅路など到底望むべくもなく、橇は絶えず震動し、ときに意想外の挙動に出ては大きく揺れて、患者の苦痛に拍車をかける。橇の中のうめき声が高まるたびに、周子はなにやら自分が病人を拷問にかけているような錯覚に襲われ、名状しがたいやるせなさを味わわなければならなかった。

 

 

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 これだけでも勘弁してくれと叫びたくなるには十分なのに、更に追い打ちをかけるような出来事が起こる。
 他ならぬ周子の母親・志田せい・・が病に倒れ、しかもその病状が、やはり村の診療所では対処不能なモノだったのだ。


 病名、葡萄状鬼胎。


 胞状奇胎という妊娠異常の旧称で、絨毛膜の組織が異常増殖して多数のブドウ状の嚢胞化する症状を呈す。


 一刻も早く下界へおろし、然るべき治療を受けねばならない。


 しかしながら母の病が発覚したとき、ちょうど最悪のタイミングで山の天候は連日荒れに荒れており、とてものこと運搬など不可能だった。


 このような悲惨が人間世界にあってよいのか。志田周子は細まり続ける母の息を、為す術もなく枕頭にて見守ることしか出来ないのである。


 やがて、それも完全に絶え。顔には白布がかけられた。


 帰郷からおよそ三年、父と約した例の期限も終わらんとする日の出来事だった。

 


「ほんたうに残念でしたわ」
 当時を思ひ起こして、周子さんは暗澹となられた。(180頁)

 


 この短い呟きの中に、しかし籠められた想いは無限である。

 

 

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 当時の田舎の常として、志田家の子供の数は多い。長女である周子を含めて、七人兄弟だったという。
 末っ子たちはまだまだ幼く、母の愛が必要な歳だ。この状況下で、


――約束の三年になったから。


 などと言い出し、一人だけ村を去るなどと、そんな所業に及べるのなら、そもそも周子は端から大井澤村に帰って来などしなかったに違いない。


 彼女は、残った。


 当初の予定の「三年限り」を遥かに超えて、昭和三十七年に53歳で永眠するまで、ずっとこの村に留まり続ける。


 その日常は、文字通り目の回るような忙しさだった。

 


 昼間は診療所の仕事に追はれ、夜は夜で父や弟妹の食事の世話から一切を引きうけたまには夜中に叩き起こされて急病人の往診にゆかねばならぬ。どんな寒い夜でも、彼女は一度も断ったことがない、それは、もし断って病気が重くでもなれば、けっきょく一人しかゐない彼女自身が後始末をせねばならないからであった。
「まったく、私は自分で病気をするひまもありませんでしたわ」
 しみじみ述懐されているが、自分で病気をするひまもないとは、なんといふ痛烈な比喩であらう。
 私はこの話を聞いて、ふと、キュリー夫人を想ひうかべた。(186頁)

 


 本当の意味で強さと優しさを兼ね備えた女性であろう。
 大和撫子とは、実にこの志田周子の如きを言う。

 


 数日間の滞在を通し、彼女の人格にとく・・と触れ、深い敬意を抱くに至った福岡隆はその去り際に、

 

 

ひと筋に村を興せし老父ちち
すくよかにあれ永遠とわに忘れじ

 


 このような詩をしたためて、その健康と幸福を誠心誠意祈念している。

 

 

野口英世 (おもしろくてやくにたつ子どもの伝記 (1))

野口英世 (おもしろくてやくにたつ子どもの伝記 (1))

 

 

 

 


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