穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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仙境の嫁姑戦争

 

 いまさら言うに及ばぬことだが、大井澤村は田舎である。


 繰り返し何度も書いてきた、「仙境」という単語は伊達でないのだ。出羽三山の小天地、標高一五〇〇尺(およそ450メートル)の山峡やまあいに細長く軒を連ねる寒村――。
 世の風雲から切り離された土地であるといってよく、それが証拠にこの村では、志田周子が赴任した昭和十年の時点でさえも未だに五人組制度が現役で活用されていた。


 そう、五人組。


 言わずと知れた江戸幕府の農民統制政策で、一部では現在の「町内会」の原型と看做す向きもある。なるほど「原型」なだけあって、その拘束力はこんにちの町内会より遥かに強い。

 

 

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 大井澤村の住民たるもの、この自治組織に不参加でいることは許されない。もし違反すれば、古式ゆかしい村八分が待っている。


 旧幕時代のまま時が止まっているような、このような山里にあって嫁姑関係がいったい如何なる様相を呈すか、自ずと察しがつくだろう。
 まさしく時代劇中の情景そのものが展開されていたのである。

 


 村の嫁階級の人々で舅、姑のあるところでは、それこそ牛馬のやうにこき使はれ産気づくまで水田で働きつづけるので、子供に手がまわらないばかりか、早産する者も非常に多かった。そして、うっかりすると、栄養不良と過激な労働から、脚気や妊娠腎になって母胎をそこなふ者もある。
 さうした忍従と身にあまる重荷を背負った母胎から健全な子供が産まれるはづがない。たいていは先天的弱質で、乳幼児のうちに死んでしまふ。(『甦へる無醫村』174~175頁)

 


 周子が自らに課した目標、「乳幼児は絶対に死なさぬ」を達成するにはどうしても、ここへ手を突っ込んでゆかねばならない。


 しかしながらその困難は言語を絶した。なにぶん相手は枯れ木のような老婆たちで、とうに思考の弾力性を失っている。その上周子は「殺人的な過酷さ」と言い、妊婦の保護育児に専念可能な環境づくりの必要性を訴えるが、自分達はその「過酷な環境下」で子供を産み、一人前に育て上げてきた自負があるのだ。


 とどめとばかりに「野良仕事をすればするほど、胎の中の児は丈夫に育つ」というわけのわからぬ迷信までもが手伝って、姑どもの周子に対する悪感情は頂点に達した。


「いまの嫁衆は幸せもんだよ」


 と、聞えよがしの皮肉を言うのは序の口で、


「学校出たての乳臭い女に、何がわかるもんかい」


 と、面と向かって罵倒を加えた者もある。
 このときばかりはさしもの周子も総毛だつほどの怒りが湧いて、指先がすーっと冷たくなるのを感じたという。
 血の気が引くとは、まさしくこういうことだろう。それほどの激情。正味な話、一切合切なにもかもを放り投げ、都会へ去りたいという誘惑が兆さなかったといえば嘘になるに違いない。


 この時期に活躍していた「医師にして随筆家」の第一人者、高田義一郎の言葉を借りれば、

 


 医者だけが自分の全部であるとすれば、あんまりつまらない話であるし、「医者だから人間だ」といふのではなくて、「人間であるから、生活の方便として仮に医者の姿になって居る」に過ぎないのだ。いくら医者だからといって、処方箋や診断書ばかり書いて居るのはあんまり心細すぎる次第で、時には成るべく医者ばなれのした事もいって見たくなる。(『人体の趣味と神秘』、202~203頁)

 

 

GiichiroTakata

 (Wikipediaより、高田義一郎)

 


 ということだ。医者といえど神ではない。悪口に晒されれば腹も立つし逃げたくもなる。
 むしろそうする・・・・ことにこそ――嫌なことからはさっさと逃げ出し、自分一個の幸福のみを追求することにこそ――、人生の真の味わいはあるのだと主張する者とているだろう。


 だが、志田周子は結局そちらの道を選ばなかった。


 そうするには、あまりに責任感が強過ぎた。


――自分は既に手を突っ込んでしまったのである。


 妊婦たちに自愛するよう呼びかけて、それが世間一般では普通の風潮になっているのだと気分を煽って、共鳴者も多少得た。


 そんな「火付け役」たる志田周子が、今になってすべてを投げ出し、この村から雲隠れを決め込んだなら、残された人々はどうなるだろう?
 一度顕在化した対立はそう易々と引っ込まない。「元凶」一人が消えた程度で、かつての平静に回帰するなど夢物語だ。要は坂で荷車を押すのと同じこと、どんなに苦しくとも坂の上まで押し切らなければ、荷車は逆に押し手を轢き潰す。


――何百年も続く因習を断ち切ろうとしているのだ。一朝一夕でいかなくて当然、悪戦苦闘は覚悟していたはずではないか。


「医は仁術なり」という古諺の真意に改めて目覚め、志田周子は踏み止まった。
 雲烟遥かなこの仙境で、あくまでも闘って闘って闘い抜く道をこそ選択したのだ。

 

 

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 その意気に天も感応したか、やがて「戦局」は周子にとって有利な側へと傾いてゆく。
 とりわけ大きな要因は、志田つるよを味方につけたことであろうか。


 つるよ。


 漢字にすればおそらく「鶴代」の二文字が当てはまると思しきこの人物は、大井澤村で唯一の、産婆としての正規資格を持った女性に他ならなかった。


 経験豊富な老人ならば誰でも名乗れると誤解されがちな――実際江戸時代はそうであった――「産婆」だが、実は明治七年に発布された医政によって産婆の資格・役割等は明確に規定されており、その門戸はかつてほど緩くなくなっていた。


 よって大井澤村は長いこと、無医村どころか「無産婆」の村であったわけだが、明治三十年代のなかごろにこの志田つるよが郡の養成所へ通い、試験をパスしたことで、漸くその不名誉な状態から脱出できた。

 


 以来、村の赤子はずっとこの人が取り上げている。

 


 その発言力は極めて大きい。村の経産婦のほとんどは、彼女に頭が上がらないと言っても過言ではない。志田周子はこの志田つるよを説得し、ついに口説き落として妊婦保護活動の強力な後ろ盾にせしめている。後に婦人会長村会議員を歴任するだけあって、見事な政治力の発揮であった。

 

 

ナイチンゲール伝 図説看護覚え書とともに

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志田周子、苦闘の歳月 ―間口六間、奥行四間の診療所―

 

 これまで触れて来た通り大井澤村という山形県の仙境で、とにもかくにも医師としてやっていくことになった志田周子。しかしながらその足取りは決して順調とは言い難く、どころか逆に、のっけからしてつまずいたとさえ言っていい。


 なにしろ「前提」ですらある、診療所建設の段階から難航している。

 

 

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 間口六間、奥行四間のこじんまりとしたこの建物――。

 


 診療所の位置は、ほぼ村の中央にあり、そのすぐ後ろには、滔々と流れる寒河江川をへだてて截りたった前山の断崖が迫ってゐた。(『甦へる無醫村』157頁)

 


 と福岡隆が描写したこの木造建築を現出するのに、要した費用はおよそ3000。


 むろん、日本円である。


 それに加えて、ハコだけ作って中身がカラでは意味がないから、診療所と名乗る上で最低限必要な設備を整えるのに更に500計3500円の買い物だった。


 そのうち1500円は、県の財政から引っ張った。


 所謂補助金というヤツである。


 大正三年の帰村以来、教師として未来を育む一方で、たびたび村長職をもつとめあげていただけに、そういう分野の話となると志田荘次郎は強かった。ついでながら福岡隆が大井澤村を訪れた昭和十八年の時点に於ける村長は、志田さとるという名前であって、周子からみて従兄弟に当たる。


 費用の残り2000円は自腹を切ってこれをあてがい、さあいよいよ着工と相成ったわけだが、木材の入手難という事情から工事は予想外に捗らなかった。


 周囲を山林で十重二十重に包囲されているにも拘らず、木が足りないとはなんたる皮肉か。荘次郎翁の初期プランでは、遅くとも七月末までには建築を済ませ、娘が帰還さえすれば、翌日からでも診療所を始めることが可能なような、滞りの一切ない、それこそ水の流るるが如き滑らかなる展開を思い描いていただけに、たまらなく気がせいた・・・とのことである。

 

 

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 結局建物が仕上がったのは、遅れに遅れて十月に突入してからのこと。
 その間、周子は周子でただ昼寝をしているわけにもいかないから、やむを得ず自宅の裏の物置を改造して仮の診療所にあてていた。

 


 そんな父娘を、当の村人たちがどんな眼で眺めていたかは想像するに難くない。

 


 彼らはこの悪戦苦闘をせいぜい「お嬢様の道楽仕事」程度にしか看做しておらず、いざ彼女が完成した診療所に入っても、滅多に診てもらおうとはしなかった。

 


 人間といふものはおかしなもので、どんなにいい腕をもってゐても、鼻たれ子供のころから知り抜いてゐる者にはなかなか信用をおかないものである。(中略)いくら女子医専をでたバリバリの医者であっても、あまりにもよく素性を知りすぎてゐるので、村人たちは年とった町医者の方が理屈なしに偉さうにも見えたし、また信用がおけたのであらう。だから、よくよくの重病人でないかぎり、周子さんの診断をうけようとはしなかった。(181頁)

 


 以前書いた「預言者郷里に容れられず」の典型が、こんな山里でも行われていたわけである。

 

 

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 たまに舞い込む仕事と言えば、卒中で爺さんが斃れたんで死亡診断書を書いてくだせえだのなんだのと、死人にまつわるものばかり。
 医者としての誇りをこれほど傷付けられる待遇も珍しかろう。これではまるで、検死官になるために帰ってきたようなものではないか。


(このままでは、とても、駄目だ)


 ここに至って、周子は認識を改めざるを得なかった。都会の医者の意識のままでは、到底通用するものでない。

 


 患者のくるのを待つ、といった今までの消極的な態度ぢゃとても駄目だ。こちらから積極的に一戸一戸押しかけて行って、健康状態をしらべあげ、そして根本的な体位の改善をはからう。(193頁)

 


 そのように決意したとのことである。


 診療の合間を縫うようにして家庭巡廻を始めた周子の姿に、村人たちは奇異の目で報いた。


 それはそうだろう、彼らの意識下にあって志田周子とは一個の「死亡診断書発行機」に他ならない。


 それ以上を望んだことはなかったし、それだけでも十分役に立っていた。


 ところが何を思ったか、この「装置」ときたらある日を境に自発的に動き出し、各家庭を訪問しては台所まで調べ上げ、栄養指導だのなんだのと、わけのわからぬお題目まで唱えはじめたではないか。


 反撥を招くのは必然だった。ある家では彼女の努力を「押しかけ往診」と、あたかも「押し売り」の一種めいた扱いをして、断固戸を潜らせなかった者もある。


 が、周子の見た大井澤村の実態は、そんな程度の障害でへこたれている余裕さえもないほどに、惨憺たるものだった。


――この村の人々のあたまには、「衛生」という意識が致命的に欠けている。


 調べれば調べるほど、そう思わざるを得ないのである。


 なにしろ村人たちときたら、雑巾を絞ったバケツで食器を洗い、「湯手」と称するたった一本の手拭いを、風呂に入る時などは家族中で使い廻している始末。

 

 

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 雑菌に、どうぞ繁殖してくださいと、態々スイートルームを提供しているに等しい愚行。


 乳幼児の扱いに至っては、更に深刻といっていい。

 


 子供が三つぐらゐになるまで平気で乳をのませるため、皮下脂肪がなくなって皮膚の色が蒼白くなり、消化不良でつひに愛児を亡くした母親があるかと思ふと、ある農家などでは、母親が野良へ出てゐる留守に、まだ、ヨチヨチはってゐる幼児が半煮えのじゃが芋を食べて消化不良を起し、それが因で死亡したといふ悲惨な出来事もあった。(174頁)

 


 親のちょっとした不注意で幼い命があたら・・・喪われてゆく様に、戦慄を覚えなければ医者どころか人ですらない。当然、志田周子は全身の血液が逆流するほどの激情に駆られ、母親への哺育教育の必要性を痛感し、「愛児カード」なるものを作成したりと次々に対策を打ち出してゆく。


 が、この問題は単に母親を教導すればいいという、そんな底の浅いものではないのだと、やがて周子は思い知る。


「乳幼児は絶対に死なさぬ」と気を吐いて、事態改善に尽力する志田周子。そんな彼女の前に立ちはだかったのは、数ある田舎の陋習の中でも最悪のモノ。

 


 ――嫁姑問題という、人間性の暗がりの、いちばん隠微で湿った場所に巣食う存在に他ならなかった。

 

 

いしゃ先生 (PHP文芸文庫)

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志田周子の背景 ―父・荘次郎翁の軌跡―

 

 

 山形県の農村で名家の娘として生まれた周子は、努力して東京女子医専(現・東京女子医大)に入学し、医師になった。父からの「スグカエレ」という電報を受けて8年ぶりに故郷に戻った周子は、父・荘次郎が勝手に周子名義で診療所を建設していることを知る。無医村の大井沢村に医師を置きたいと願っていた父は、代わりの者を見つけるまでの3年間だけでも、村で医者をしてほしいと周子に頭を下げる。未熟な自分に診療所の医師が務まるのか不安だった周子も、父の頼みを聞き、3年間だけ頑張ろうと心に決める。2015年11月、山形県で先行公開。


 ――以上、映画.comより引用させていただいた、『いしゃ先生』のあらすじである。

 


「代わりの者を見つけるまでの3年間だけでも」という条件付けは昭和十九年刊行の『甦へる無醫村』中にも発見できるものであり、その点両作品は一致している。

 


 はじめ荘次郎さんの考へでは、娘を三年間、山村のために働かすつもりであった。三年たてば、結婚もさせよう、修行にも出さう、それまでには村人の健康も向上するだらう、後継者の目鼻もつくだらう、と思ってゐた。(『甦へる無醫村』183頁)

 


 喰い違ってくるのは、この話を切り出したタイミングだ。
 映画の方の荘次郎は理由も告げずにいきなり娘を呼び戻し、人情的に断り難い環境を作り上げ、あたかも「囲い込み」めいた所業に及ぶなど、やることがどうにも姑息に見える。


 が、『甦へる無醫村』にて福岡隆が目の当たりにした志田荘次郎という男は違う。


 故郷に戻って医者をやって欲しいという願いは娘が都会に居る時分――東京女子医専を卒業し、附属病院の今村内科で助手をやっていたころ既に伝えていたものであり、周子の方からそれを承知する旨電報すると、間もなく「帰郷を待つ」との返事があったというのである。


 そればかりでなく、どうやらこの一件は親族中にも相当波紋を呼んだと見え、準備を進める周子のもとには彼らから、

 


「この山奥へかへってどうする。そちらで職を求めよ。それがお前のためだ。おやぢが帰れといっても決して帰るでないぞ」(154頁)

 


 こうした意味の手紙が続々舞い込んだというのだから、『いしゃ先生』で描かれたような「騙し討ち」をするのはどう考えても無理がある。
 つまり福岡隆によれば、昭和十年七月に於ける志田周子の帰郷とは、所謂「覚悟の帰郷」に他ならなかった。

 

 

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 期限を三年間と切った荘次郎の心境についても、福岡は更に突っ込んで訊いている。
 この問いに対する荘次郎の返答は、ちょっと長いが、眉をひらくに足るものであり、是非とも一読を願いたい。

 


 いくら父であり、娘であるとはいひながら、いつまでも娘を犠牲にすることは許されない。娘には娘の自由があるはづである。
 かりに父である自分が電話のボックスにはいってゐるとすれば、娘の周子もやはり娘なりに電話のボックスに入ってゐるわけである。ボックスの外から村のために働いてくれとか、かうしてくれ、ああすべきだ、と、父としてのさまざまな忠告なり要求なりをいふことはできても、戸を開けてボックスの中にはいって、娘を強引にひっぱり出してまで自分の要求をきかせたり、思ひどほりにすることはできるものではない。ボックスの中は、誰にも乱されないその人の自由な世界であるはづだ。それまで乱すことは人の道に反する。
 結婚にしてもさうだ。ボックスの外から、「お前、この人と結婚する気はないか」と、父としてすすめることはできても、否だ、といふものを、無理矢理ボックスの中から引きずり出してまで結婚させることはできない。忠告もし、指導もすることは、もとより差支へない。否、むしろどしどしすべきである。しかし、娘のみに与へられたボックスの中の自由までも奪ふことは天人ともに許されないことである。(183~185頁)

 

 

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「滅私奉公」が絶叫され、個人主義的な論説など薬にしたくとも見当たらないはずの戦時下にあってよくもまあ、こんな内容の本が一切の検閲もなしに出版せたものだと思わず感心したくなる。


 この演説を、福岡隆「実に立派」と激賞している。山村の人とも思えぬほどに進歩的な見解だ、と。――


 それもそのはず、実は志田周子の道程は、数十年前志田荘次郎が歩んだ道の相似形でもあったのだ。

 

 

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 すっかりあたまの寂しくなった荘次郎翁もその若かりし時分には、この仙境から街へと下りて山形師範学校に通い、教員免許を獲得した俊英だった。


 その後、県内の某小学校にて教師としての経験を積むうち、明治三十九年頃、東京師範学校を中心として広まった修養団運動」に参加。「流汗鍛錬・同胞相愛・献身報国」のスローガンのもと、


「盟友団結の力をもって個人修養の推進力たらしめ、和協一致、総親和、総努力の善風を天下に作興せん! 来れよ友よ! 醒めよ同志!」


 獅子吼する蓮沼門三に共鳴し、彼の精神を実現するため、活動に打ち込んだとのことである。

 


 いかにわれわれが、世のため人のためを思ったところで、個々分々で仕事をしたのではとうてい成就するものではない。これを成就させるには、小さい利個心を捨て、すべての者が大目的にむかって大同団結するよりほかに途はない。
 金ある者は金を出し、智慧ある者は智慧を出し、権力ある者は権力を出し、さうして国民がおのおの持ちあはせのものを出しあって協力するところにこそ、国家の幸福も、社会の進歩も、また人類の幸福もあるのだ。
 学校にしてもそのとほり、特に次代の国民を教育する教師は、この心を片時も忘れてはならない、と、しみじみ思った。(54~55頁)

 

 

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 (Wikipediaより、修養団SYDビル)

 


 未だ寒さの強く残る大正三年四月のある日、親戚という親戚から反対されたにも拘らず、窮迫する故郷を救わんと妻と五歳の周子の手を引き大井澤村へと帰っていった荘次郎の「捨て身」の行為の原動力は、このあたりに根ざすとみて間違いない。


 つまりは親子二代で村のため、打算を超えて献身したということである。この父なくしてこの娘はあり得なかった。数ある人間風景の中でも、これは際立った偉観であろう。志田親子を想うとき、私は何か、高峰を仰ぎ見るような清々しさを胸に感じる。

 

 

蓮沼門三物語―愛と汗の人

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仙境のナイチンゲール ―山村と死亡診断書―

 

 昨日に引き続き、『甦へる無醫村』についてである。


 本書は「仙境のナイチンゲールと呼び名の高い志田周子を軸としながら、しかしそれのみにとどまらず、無医村の悲惨な実態や、我が国に於ける女医の系譜を縷々と綴った――それこそ古事記の昔にさかのぼってまで――、非常に広範な内容を包括する本である。


 そうした背景の認識なくば、志田周子の真価は理解できないと、著者である福岡隆は見たのだろう。そしてその判断は正しかった。


 特に死亡診断書の一件なぞは、私にとっても完全に盲点であったので、大いに蒙を啓かれる思いがしたのだ。

 

 

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 事のあらましはこうである。明治維新、何がやかましくなったかといっても戸籍関連以上にやかましくなった分野はざらにない。


 いやしくも近代国家を名乗るたてまえ、人が勝手に消えたり土になったりすることは許されないのだ。どこからどう見ても完全に息の絶えたる死骸であろうが、まず医師の診察にかかり、死亡診断書という書類を書いてもらわないことには葬儀も出せぬ


 無医村の場合、たった一枚のこの書類をめぐって、遺された親族が死ぬ以上の苦しみを味わうことも多かった。

 

 

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Wikipediaより、死亡診断書)

 


 なにせ、村に医者がいないのだ。


 死体を調べてもらうためにはまず医者のいる下界まで、むくろを担いで下りねばならぬ。


 が、魂の抜けた人体というのはとにかく重い。しかも歩むべきは獣道めいた山路である。
 一人では文字通り荷が勝ちすぎる任であり、少なくとも四人の人夫を必要とした

 


 人夫には町で一ぱい酒をつけて、また十里の山道をひき返へすので、朝暗いうちに村を出ても帰村するのはどうしても夜中になる。だからその費用も容易なものではなく、内輪に見つもっても七・八十円は覚悟しなければならない。(63頁)

 


 白米十キロが三円で買えた時代に於ける七・八十円だ。


 ただでさえ貧しい僻村の暮らしにこの出費はまさしく殺人的といってよく、いやもう死体のネクローシス対消滅ヴォイドアウトを惹き起こす『デスストランディングの世界観でもあるまいに、その処理をめぐってここまで苦しまなければならないとはいったいどういうことであろう。

 


 しかし一面、金さえ払えば搬出できるだけまだ幸せという面もあるのだ。

 


 大井澤村のような一年の半分を雪に鎖される山村にあっては、厳冬期に死体を運び出すなど自殺以外のなにものでもなく、道迷いや転落の果てに新たな死体を生み出すだけのことであり、そのため冬ごもりの最中に死人が出ようものならば、たっぷり積もった戸外の雪にそれ・・を突っ込み、保存して、数ヶ月先の雪解けの日までそのままじっと待つという、恐るべき処置を実行せねばならなかった。

 

 

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 福岡隆はこれを語るに、「こんな事実は医療機関にめぐまれすぎてゐる都会の人々には、ちょっと想像もつかないことであるが(62頁)と前措いているが、現代人である私の感覚からすれば、「想像もつかない」どころの騒ぎではおさまらず、もはや地上の沙汰事とさえ思えない。


 だから当時の大井澤村の人々にとって志田周子女医が赴任するということは、すなわち葬儀にまつわる手間と出費を大いに削減できるということであり、ただもうそれだけで喜悦するには十分だった。


 医者を救命の使徒でなく、あたかも死亡診断書を発行する一個の機械として視るかの如きこの反応。かつての山村の実情には、ほとほと戦慄させられる。

 

 

【PS4】DEATH STRANDING

【PS4】DEATH STRANDING

 

 

 

 


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仙境のナイチンゲール ―2020年最初の読書―

 

 2020年最初の読書は、1944年刊行の、『甦へる無醫村 ―雪国に闘ふ女醫の記録―』という古書だった。


 1944年といえば、すなわち昭和19年


 敗戦の前年度に他ならず、既に末期的様相を呈しつつある日本に於いて出版された書籍ときては、いきおい身構えざるを得ない。

 一行一行、丹念に読んだ。

 それに相応しい、力の入った書であった。

 

 

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 全町村の実に三分の一近くが無医村だったというかつての日本。山形県の中央部、寒河江川上流・出羽三山中の小天地に広がる大井澤村もそうした「医者なき僻村」の一つであって、いやむしろ典型的といってよく、衛生設備の不足によって、今日ならば造作もなく救かる命がばたばたと失われてゆく地であった。


 ことに乳幼児の死亡率の高さときたら、目を覆うより他にない。


 本書はそんな大井澤村のありようを憂い、憂うのみならず実際に事態匡救のため文字通り粉骨砕身して事に当たった、志田周子ちかこという女性医師の探訪記である。

 

 

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 左様、志田周子。


 5年前の2015年には『いしゃ先生』という、やはり彼女を主役に据えた映画が製作されていることから、それで聞き覚えのある人も多いかもしれない。


 本書を著した福岡隆という記者が志田周子に面会したのは1943年5月のこと。太平洋側ではとうに桜も散っていようが、東北の、しかも日本海側に当たる山形県ではそうもいかない。取材の前に彼はまず、五里の雪道を踏み越えてゆかねばならなかった。


 言うまでもないことだが、平地と山道では同じ距離でもかかる労力はまったく違う。

 おまけにともすれば膝まで埋没しかねない雪に覆われているとあっては、その苦しみは言語を絶したものだろう。本文中でも福岡は、

 


 進むにつれて、重畳する山峡の道はいよいよ細く嶮しくなってゆく。そして、千仭の足下には、雪解に水勢をました寒河江の濁流が、滔々と岩を噛み渦を巻き、奔馬のごとく荒れ狂って川下へ川下へと駈け下りてゆく。私はその凄まじい自然の前に、何かしら名状しがたい威厳と空おそろしさとを感じた。
 往き交ふ人影すらない雪に埋もれた山道、しかも、行く手には雪崩落ちた巨岩や落ちかかった古橋が私を待ちもうけてゐる。つぎつぎに起る障碍、ややもすれば私の強靭な意志もとろけさうになる。(17~18頁)

 


 と、正直な恐怖と萎えかける心気を吐露している。

 

 

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 が、その度に彼は自分自身を激励し、前へ前へと進んでいった。


 何を隠そう、福岡自身も無医村までとは言わないが、医療機関のすこぶる未熟な離島の生まれだったのである。


 そのせいで、少年時代に早々と両親を亡くすという不幸さえも経験している。


 やがて志を立てるに至り、東京に遊学した福岡青年は衝撃を受けた。いったいなんだというのだろうか、この医療機関の発達ぶりは。
 この十分の一でも故郷に備わっていたのであれば、父と母はああまでむざむざ、泉下の人にならずに済んだ。衝撃は、単に衝撃のみでは終止せず、炎となって荒れ狂う。

 


 都市にばかり醫療機関が集中して、地方の農村が捨ててかへりみられないといふのは、どう考へても不合理である。むしろ、衛生施設にめぐまれない農村にこそ、醫療機関が必要なのだ、農村に醫師を送れ――
 さうした叫びは、長いあひだの私の持論となった。(10頁)

 


 そんな福岡隆にとって、栄えある東京女子医専――現在の東京女子医科大学の前身に相当――を、しかも抜群の成績で卒業しながら敢えて出世街道に背を向けて、斯くの如き人も通わぬ山の底、人口1200人程度の故郷に帰り、地域唯一の医師として献身する道を選んだ志田周子という人は、まさしく理想の体現者であったろう。


 惹きつけられないはずがない。S極がN極を恋うにも匹敵する熱烈のもと、彼は山道を進んでいった。

 

 

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甲州葡萄悲喜交々

 

甲州という名のブドウがある。


 だいたいシーズン終盤ごろに成熟し、収穫されるこの品種。特徴としては果皮の厚さと、種の周りに酸味だまりがあることか。国内生産量の90パーセント以上を山梨一県が占めていることも加え入れてもいいかもしれない。


 生食よりもワイン醸造が主な用途で、斯く言う私自身も口にした覚えがあまりない。我が生家でも大抵食卓に上がるのは、巨峰ピオーネあたりであった。


 ところがこの「甲州」こそが生食第一の品種と看做され、西洋ブドウなにするものぞ山梨県人が大気焔を上げていた時代が確かにあった。

 

 

Marufuji Winery 190907f1

 (Wikipediaより、甲州

 


 それも一過性の風聞でなく、明治初期から大正の中期あたりまでの長きに亘って、確固として疑うべからざる常識として通用していたというのだから驚く以外にないであろう。


 なにゆえ、このような錯誤が起きたのか。


 なるほど確かに歴史は古い。


 なにせ、奈良時代に活躍した行基菩薩に起源を求める説とてあるのだ。もっともこれには確たる裏付けもないために伝承の域を出ておらず、信憑性はごくごく薄いが。


 実在がはっきりと確認できるのは戦国時代に入ってからだ。甲斐武田家中のさむらいどもがこのブドウを贈答品として活用していた史料が遺されている。


 もっとも当時の生産地は「笹子おろし」と呼ばれる乾いた風の吹きつける、勝沼一帯に限られていて、今から見れば微々たる量に過ぎなかったようではあるが。


 特筆すべき変革は、明治以降におとずれた。維新後この地に赴任して来た藤村紫朗なる知事が、ブドウ栽培に非常な興味を持ったのである。

 

 

Fujimura Shiro

 (Wikipediaより、藤村紫朗)

 


 彼は土着品種である「甲州」のみに囚われず、もっと大々的にこの事業をやろうと考えた。あるいはこの男の頭の中には、現在の「果樹王国」たる山梨の姿が描かれていたのやもしれない。

 その実現のため藤村は、就任早々フランスに人を派遣して、彼の地に於ける先進的なブドウ栽培とワイン醸造を研究すべく命令している。

 


 不幸というか、錯誤の元ダネはここで生まれた。

 


 派遣された人物は、確かに藤村の期待に応え、優良なるブドウの苗木を持って帰還した。


 が、その生育に当たって決して欠かすことの出来ない必需品――ボルドーに代表される、農薬・除虫剤のことごとくを忘れていた。


 結果、折角の舶来品はことごとく枯死。ただ一種の例外は、蟲害には強いものの味はすこぶる粗悪劣等な低級品で、フランスでは誰も生食する者はなく、ワイン醸造以外の使い道が存在しない種であった。


 焦ったのは派遣された彼である。それはそうだろう、態々県庁のカネで外遊し、結果を出すことをあれほど望まれていたにも拘らず、その結果がこれとあってはどのツラ下げて報告するのか。


 下手をせずとも、馘首はまぬがれないだろう。窮した彼は、実に役人的な行動に出た。たった一種残った低級品をさも西洋ブドウの代表格のように触れ込んで、


「とてもとても、『甲州』には敵いませぬ。フランスといえど、あれ以上のブドウは持たないようで」


 と、輸入に失敗したのではなく、輸入する必要がないという具合に話をすり替えてのけたのである。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20191231170301j:plain

 


 この弥縫策に、知事以下県庁吏員のことごとくが乗せられてしまったというのだから、社会というのはひょっとすると、信じられないほど容易い場所であるかもしれない。
 ともすれば策を打った本人さえもこの「成功」が信じられず、白昼夢でも見ているのかと頬をつねったことだろう。

 


 甲斐のくにびとがこの迷妄から醒めるのは、大正時代、西園寺公望の訪問まで待たねばならない。

 


 この慶事に際して山梨県の有志どもは、何の迷いもなく食卓に「甲州」を添えて差し出した。


 日本どころか世界一と信ずるところのブドウである。パリに留学した経験を持つ西園寺公望相手だろうが、どうして怯む必要があろう。一同は当然、この「維新の元勲」から賞讃の言葉が貰えると思い、今か今かと固唾を呑んで見守った。


 ところが何ぞや、作法に則り、食事を終えた公が漏らした言葉たるや、


「やはり西洋ブドウの方がよろしい」


 の一言のみとは。――

 

 

Kinmochi Saionji 2

 (Wikipediaより、西園寺公望

 


 このとき山梨県人が味わった衝撃たるや、天地逆転に匹敵すると表現しても決して過剰ではないだろう。とてつもない痛みと共に、彼らは自分たちが井の中の蛙に過ぎなかったことを理解した。

 


 その後、「甲州」は改良に次ぐ改良を加えられ、2010年には甲斐あって、国際ブドウ・ブドウ酒機構OIV醸造用ブドウとして認められ、ワインラベルに「Koshu」と記載してEU向けに輸出することが許可されている。


 日本固有のブドウ種でこの認定を受けたのは、実に「甲州」が初のこと。


 今ならば、西園寺の舌すら唸らせる自信がある。甲斐のくにびとの執念が、ついに嘘を真に変えたのだ。

 


 ――電車の窓から久方ぶりの甲府盆地を眺めつつ、私はそんなことを考えた。

 

 

 

 

 


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「ポッポ」と「鳩一」 ―華麗なる一族のアダ名事情―

 

 大正の御代も終盤にさしかかったある日のことだ。東京都、交詢社の食堂で、二人の男が顔を合わせた。
 いや、互いに予期した接触ではなく、あくまで「偶然の出会い」に過ぎなかったわけであるから、「鉢合わせした」と書いた方が相応しかろうか。


 男たちの名は、波多野承五郎鳩山一郎


 ともに議会で国民の意思を代弁する「代議士」という立場である。

 

 

HATANO Shogoro

 (Wikipediaより、波多野承五郎)

 


 そも交詢社とは、福沢諭吉の肝煎りで明治初期に発足した日本最初の実業家社交クラブに他ならず、しぜん彼らのような立場の者も出入りすることが多かった。


 とまれ、出会った以上は無視するわけにもいかぬであろう。特に波多野承五郎には、鳩山に対して是非とも確かめてみたい一事があった。


 それは、当節記者の間で通用していた鳩山一郎渾名について。
 彼はこのころ、もっぱら鳩一はといちと呼び習わされていたのである。

 


 君は新聞紙上で「鳩一」と言はれるが、あれを見て好い心持がするか、悪い心持がするかと言って訊いた。鳩山君は余り好い心持はしないと言った。併し政治家である以上は、鳩一でも鳩二でも世間が問題にして呉れるのは偉いのだ、鳩山一郎君と云って敬遠された挙句に全然紙上から放逐されては困るではないか、故に「鳩一」と呼ばれるのは政治家の名誉でなかろうかと言ったら、全く書かれなくては困るが、「鳩一」には感服せぬと言って居った。(大正十五年刊行、波多野承五郎著『古渓随筆』194頁)

 


 両者の抱く政治意識、その懸隔の具合までもがありありと反映されたやり取りだろう。

 

 

Mr. Ichiro Hatoyama

Wikipediaより、鳩山一郎) 

 


 鳩山一郎1959年に、76歳で永眠する。


 その「鳩一」の死からちょうど半世紀を経た2009年。彼の孫たる鳩山由紀夫第93代総理大臣という地位に就き、そして、わざとやっているのかと叫びたくなるほどの勢いで失政ばかりを繰り返し、この国を奈落の底へと導いた。


 俗に「悪夢の民主党政権として知られる暗黒の日々の始まりである。


 破綻寸前まで掻きまわされた日米関係。
 中国を果てしなく増長させた外交態度。
 立件されただけで三億五千万円にも上る「故人・借名献金」問題。
 実母から支給される毎月千五百万円の「こども手当て」。
マニフェストという言葉の重みを一円玉以下に暴落させたこととて見逃せない。
 小沢一郎による天皇陛下の政治利用も、思えばこの男の政権下で起きた出来事だった。


 いちいち具体例を挙げてゆけばキリのない、目も眩むようなこれら「実績」の積み重ねにより、鳩山由紀夫は実に多くの渾名を頂戴する運びとなった。


「ポッポ」「ルーピー」「日本のノムヒョン」「宇宙人」――「鳩一」と呼ばれることにすら苦々しさを隠せなかった、彼の祖父がこの有様を知ったなら、いったいどんな顔をするであろうか。
 衝撃のあまり血圧が破局的に急上昇し、脳の血管をぶっちぎって憤死してもおかしくはない。

 

 

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 まったく彼は、あのルーピーは、国民はおろか先祖に対しても顔向け出来ないことをした、不義・不孝の徒輩である。


「兄は簡単に言えば、表に出来ない裏献金ばかりいっぱい受けている。それでは恥ずかしいから、勝手に名前を借りた。だから、死んだ人の名前も借りた。
 兄弟だから、私の友人たちがいっぱい入っている。私の友人で兄に紹介した人たちは、勝手に名前を使われて私のところに怒って電話をかけてくる。
 しかも、あっという間にもみ消し工作をやった。(中略)私はわずかに残っている兄弟愛があるので、これ以上言わない」


 とは、実弟鳩山邦夫の言葉だが、国益の為にその「愛」とやら、是非とも切り捨てて欲しかった。

 

 

 

 

 


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