穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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パイプと疫病 ―英国紳士の必需品―

 

「英国紳士」のイメージ像に、パイプの存在は欠かせない。


 真っ黒なシルクハットの下、静かにパイプをくゆらし思索に耽る人物風景を目にしたならば、誰しも彼の国籍をイギリス人だと推察しよう。同時に彼の腹の底で、どれほどえげつない奸計が張り巡らされているのかとも。


 パイプ――喫煙の習慣が、斯くも英国と密接に結びついた契機きっかけは、実のところ1665年を起点とする黒死病の大流行にこそ見出せる。
 王政復古間もないイギリスの天地を襲い、ロンドンだけでも七万の死者を数えたこの疫病は、同時に一つの迷信を生んだ。


 すなわち、「タバコの煙は疫病の悪気を追い払う」という迷信を。

 

 

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 ヨーロッパに於けるタバコの歴史は存外浅い。1492年にコロンブスが新大陸を発見するまで、「特定の植物に火をつけその煙を吸引する」などということは、彼らの全然考えざることだった。


 だからコロンブスが初めてそれを見たときも、あれは原住民独特の、身体のいぶし方だと思い込んだほどだった。当時のアメリカ原住民の喫煙法は、地に穴を掘って中でタバコの葉を燃やし、そこに植物の茎やY字型のパイプ――二股に別れた先の両端を、鼻の穴に入れて使う――を差し込み煙を吸うというもので、この勘違いにも無理はない。


 斯くの如く、タバコの存在そのものはコロンブスの探検により「発見」されはしたものの、その現物が欧州世界に持ち込まれるのはおよそ半世紀後の1559年のことである。なんでもフィリップ二世が派遣した、スペインの医師がはじまりらしい。


 その翌年にはポルトガルの駐仏大使、ジャン・ニコット・ド・ヴィルマンも、リスボン経由でタバコの葉をフランス社会に流通させるべく周旋している。このような具合でタバコは当初、スペイン・ポルトガルを窓口とし、もっぱら「医薬品」の名目で、他の欧州諸国に広まっていった。


 イギリスはむしろ、後発に属する。


 にも拘らず「パイプと言えばイギリス人」というイメージが誕生したのは、「エリザベス女王の前でもパイプをふかしてのけた男」、サー・ウォルター・ローリーの活躍もあろうが、やはり疫病の大流行が与って大きく力ある。

 

 

Sir Walter Raleigh oval portrait by Nicholas Hilliard

Wikipediaより、ウォルター・ローリー) 

 


 病を避ける――死にたくないの一心で、老いも若きも、男も女も、誰も彼もが狂気したように煙を吸った。


 事実、それは他の欧州諸国から眺めれば、イギリス人が国を挙げて総発狂したとしか思えなかった。なにせ、六歳の子供でさえもが大人顔負けの堂々たる手つきで以ってパイプを咥え、一服、また一服とふかすのである。


 1671年にイギリスを旅したフランス人は、その紀行文に以下の如く書き記した。

 


 ウスターの街を歩いて居ると、よくフランスでも英国のように喫煙の習慣があるかと聞かれることがままある。何しろ英国では子供が小学校へ行く時には、よく気をつけて子供のカバンの中にパイプを一本入れてやることを忘れないやうにする。これが朝食の代わりになるのである。愈々学校へ行って授業が初まると一くぎりついた所で先生は生徒と一緒に煙草をのみはじめる。そして其間にどう云ふ風に煙草をのむかパイプはどう握るかと云ふやうな方法を教授する。かうして学校ですっかり喫煙術を教へこむのである。何分にも喫煙は人間の健康上絶対的必要物なりと信ぜられて居るのだから仕方がない。(『煙草礼賛』25頁)

 

 

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 喫煙を学校が推奨するとは、今日からすれば悪い冗談のような光景だ。


 いや、推奨するどころではない。もし煙を吸うのを拒否するような子供が居れば、たちどころに厳しい折檻が浴びせられたというのだから、もはや「推奨」ではなく「強制」だった。


 当時の人々が如何に疫病を恐れていたかがよく分かる。縋れるものなら、文字通り何にでも縋ったのだろう。


 アメリカ原住民にとって、喫煙は宗教的色彩も強かった。べつだん珍しいことではない。多くの原始社会に於いて、快楽を齎す自然物――コカの葉ケシ坊主といったような――は、「神からの賜物」扱いされる。


 成分調査など、やりたくても出来なかった時代の話だ。イギリス人が紫煙に神秘的効能を幻視して、そこに救いをもとめたのも蓋し必然と言わねばならない。


 もっとも当時のフランス人はそんな風には見てやらず、ドーバー海峡の向こう側の狂乱ぶりを総括し、

 


 この嗜好が英国人をして無口な沈みがちな、応容な人間に仕立て上げてしまったことは争はれない。土台、煙草といふものは人間を瞑想的な神学的気分に導くものである。世界中で英国の牧師位煙草の好きな人間はないのだから、彼等が同時に世界で有名な神学者揃ひであることも一向不思議でも何でもない。(27頁)

 


 と結論付けたが。


 これもまた、両国の国民性をよく表した名文である。

 

 

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夢路紀行抄 ―星の丸み―

 

 夢を見た。


 断崖を、延々下り続ける夢である。


 それも『デスストランディングに登場する、ロープ用パイルを使いながら。

 

 

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 パイルを突き刺し、ロープを垂らし、右に左にトラバースを繰り返しつつ下降してゆく。
 ロープの限界、30メートル圏内に、次の下降の起点と為し得るポイント――パイルを刺すのに格好な岩棚を求めながら。


 そんなことを幾度となく繰り返すうち、自分が取りついているこの壁のことも分かってきた。


 大海原の真っ只中に聳え立った円柱だ。


 円周は、そう大したことはない。どんなに多く見積もっても、20メートルは超えないだろう。


 尋常でないのは高さの方だ。私が居るのは中腹あたりのはずなのに、その段階で既にもう、地球の丸さが見て取れる


 水平線が、はっきりと弧を描いて広がっているのだ。一万メートルか、下手をすればそれ以上。デスゾーン――どう足掻いても、人体が順応不能な高度。酸素濃度のあまりの薄さに、ただ呼吸しているだけで体力がどんどん削られてゆく――を余裕で超える数字であって、もし現実にこんな場所に居たのなら、何も出来ずに死ぬ以外のどんな可能性も残されていまい。
 ましてや懸垂作業など、とてもとても。まさしく夢ならではの滅茶であった。

 

 

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 星に突き立てられた箸とも言うべき、そんなとんでもない代物を、ただひたすらに下りてゆく。


 他の事件は何一つとして起こらない。


 壁面にへばりつくが如く繁茂する緑の苔に時折心癒されながら、飽きもせずそのことばかりを繰り返す。


 しかもそれで、奇妙なことだが、私は結構満たされていた。


 熱中していたといっていい。


 箸の例えにしろ、デスゾーン云々にしろ、すべて目覚めて以降に思いついた事柄だ。当時の私はまさしく夢中で、ただひたすらに行為自体を楽しんでいた。

 


 この感覚は、『デスストランディング』という作品自体にもどこか通ずる。

 


 荷物を背負って、オープンワールドを移動するだけ。ただそれだけのゲームであるのに、何故か不思議と中毒になる。


 面白さを説明するのが難しい、なんとも評価に手を焼かされるゲームであるが、まさか夢にまで影響するとは。頭脳よりも、無意識――本能に訴える魅力があるということか?

 


 ついでに一言しておくと、私は「箸」を下りきる前に夢から醒めた。


 これで今夜の夢が「中断ポイント」から再開されたりしたならば、ホラーの気配も湧いて来るが、さて。

 

 

 

 

 


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通貨としての巻煙草

 96000000000000000000000000%。


 この数字が何を意味するかお分かりだろうか。


 二次大戦終結後の、ハンガリー通貨ペンゲーのインフレ率である。

 
 漢数字に直すと、九十六𥝱パーセント。


「京」の上の更に上、10の24乗を示す単位だ。


 ハイパーインフレとしか言いようがない。

 

 

HUP 10Mmil 1946 obverse

 (Wikipediaより、10兆ペンゲー紙幣)

 


 これはひとりハンガリーのみに限った現象ではなく、欧州諸国のほとんどが、戦後凄まじい物価騰貴に苦しめられた。


 自国通貨の信用が、紙クズ以下に暴落した狂気の時代。そんな社会では勢い物々交換という最も原始的な商取引の形態が息を吹き返してくるのだが、それにしたって何か「基準」が必要となる。
 価値の尺度として大多数が納得し得る、持ち運びが楽で、偽造しにくく、かつ相当数が担保されている何かが、だ。


 そんな虫のいい注文に見事応えてのけたのが「煙草」であったと、『煙草礼賛』にて下田将美は書いている。

 

 

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 半月前の神田古本まつりで購入した本書から、そのあたりの記述を抄出すると、

 


 ウィーンでは給仕人への心附けが標準的に巻煙草一本。新しいライカのカメラが煙草十二袋で買へる。
 ローマでは巻煙草二本が普通の心附けの標準。闇の女は一晩が巻煙草十袋、当時の貨幣に換算すると巻煙草袋が一箱入りで二千リラ、米貨にして二十ドルに当るのださうである。ベルリンも同じでスキー靴一対が巻煙草袋一袋、旅行袋が十本で買へる、ドイツ人は米国の煙草を手に入れても吸はないで、物々交換にばかり使ふのだと云はれてゐた。パリでは巻煙草が一袋あると、パンならば二十ポンド、玉ねぎなら二ポンド、一九四〇年の赤の葡萄酒が一瓶、コニャックなら半瓶買へる。(6~7頁)

 


 本書が刊行されたのは昭和二十二年九月のこと。終戦からわずか二年しか経ておらず、未だGHQの日本統治が強力だった頃であり、そんな時勢下にあってよくぞまあ、ここまで海外情報を収集できたものだと思わず感心したくなる。


 著者の下田将美はかつての大阪毎日新聞常務主筆、編集局次長、出版局長を兼任していた人物であり、敗戦と同時に辞任、公職追放
 直前の空襲で家も失っていたから、文字通り身一つで投げ出されたことになる。


 潰滅的な敗北を喫し、史上初めて他国に支配されたことにより、既存のあらゆる価値観念がひっくり返って誰にも収拾不能となった、戦後まもなくのあの世間に、だ。


 混沌の坩堝であったろう。
 が、下田将美はへこたれなかった。

 


 私は戦争も終りに近くなって罹災して家も家財も一切を焼かれてしまった。夜中に激しい爆撃の火中から身を以て逃れて、その夜明け、奇麗に焼けてしまったわが家の跡に立った時、何だか一切がうそのやうな気がした。びしょぬれになった洋服のポケットを探るとケースの中に煙草がまだ二三本残ってゐた。
 私は心静かに一ぷく吸った。まだ火気の残ってゐる門前の石屑の上に立って、紫の煙をくゆらしながら焼けて坊主になった庭木を眺めてゐるうちに、何だかさっぱりした気持ちになって来た。過ぎたことは過ぎたことだ。新しい天が向ふにある。裸で出直すすがすがしさにこの一服の煙草のうまいことよと負惜しみでなく感じたのだった。私は今でもこの時の煙草の味を忘れない。(4頁)

 


 事実、これが負け惜しみでないことを、下田は実績で以って証明してのけるのだ。


 やがて日米通信取締役として復活すると、昭和二十五年には大有社を設立、社長に就任。一国一城の主にまで上りおおせているのである。


 立ち昇る紫煙に導かれた軌跡であった。

 

 

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 昭和三十四年、六十八歳にして永眠。


 ソビエト連邦の崩壊前後、赤ラベルマルボロが通貨代わりに流通し、一箱出せばタクシーにも乗れ、トランク一杯に詰めたのならばハインドだって買えた。そう聞いたなら、この人は何と言ったろう。


 さもありなんと、満足げに頷いたのではなかろうか。

 

 

 

 

 


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鶴見三三と人民戦線 ―後編―

 

 昨今のフランスでも「黄色いベスト運動」なる政府への抗議活動が進行中で、催涙弾火炎瓶が飛び交う光景が内外に多大な衝撃を与えたものだが、それでも三色旗を掲げているぶん、彼らはまだ良性・・だった。


 なにしろ約八十余年前、鶴見三三が目撃した人民戦線のデモに於いては、三色旗より赤旗の方が遥かに多用されたのだから。

 


 ルノーシトロエンの自動車工場では全部共産党員に占領されて屋根の上高く赤旗が掲げられ、職工は第三インターナショナルの歌を高唱してゐる有様だ。(中略)市中の各所で共産主義者の会合が頻々として行はれ、民衆は赤旗をふり、第三インターナショナルの歌を得意気に高唱するのみならず、噂によると大統領官邸の前でさへも之を歌ってゐたとの話である。(『明日の日本』165頁)

 


 鶴見三三が人民戦線の背後にコミンテルンの跳梁を感得するのも無理はなかろう。

 

 

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 実際問題、共産主義者の浸透力は人間の想像力の限界をいとも容易く超えてくる。


 日本に於いてはゾルゲ事件がいい例だし――こともあろうに内閣総理大臣のブレーンが、ソビエト連邦のスパイであった――、フランクリン・ルーズベルト政権内にも数多くのアカの手先が巣食っていたのは今日び半ば常識だ。


 有名どころを挙げるなら、ダンカン・リーが最適だろう。


 CIAの前身組織戦略諜報局OSS補佐官筆頭を務めた男。ウィリアム・ドノバン長官宛ての機密書類をすべて読むことが可能であったこの人物が、その実コミンテルンにこそ忠義を誓い、星条旗でなく赤旗の利益のために日夜粉骨砕身していたとはなんとも寒心に堪えない事実ではないか。


「公正で正確な情報源」として信頼の厚かったOSSでさえこう・・なのである。

 他所に至っては、何をかいわんや。
 財務省国務省、農務省、予算局、外国経済局、戦争情報局、戦時生産委員会、FBIに至るまで――あらゆる場所に彼らはいた。


 戦慄の時代といっていい。


 当時を生きた具眼者たちが「コミンテルン」という単語にどれほどの脅威を感じていたか。鶴見三三の文章からは、その一端が窺える。

 


「フランスは今や共産主義者の天下となった。否モスクワの支配下に置かれたかの観を呈する」まるで世界の終わりが来たかのような書きぶりであり、「学問にせよ芸術にせよ、十八、九世紀以来世界をリードし来り、思想的にも常に先駆を為し来りたる国が、今更第二のソ連の如き印象を与へ、現にかくの如き行動を目の前に視せつけらるることは、仏国の権威上実に嘆かはしく又遺憾に堪えない」と、忸怩たる思いを遠慮なしにぶちまけている。

 

 

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赤の広場

 


 もし彼が、フランスに対してここまでの敬意を抱懐しているこの男が、1968年5月のパリに居合わせたなら――マオイズムの旋風が吹きすさび、毛沢東語録が飛ぶように売れ、どの書店からも姿を消すほど流行し、学生という学生があの醜悪な小著を聖書と崇めて行進する、所謂「五月危機」のあの情景を目の当たりにしたならば、あまりのことに卒倒していたやもしれぬ。
 これは悪夢だ、本末転倒にもほどがある。栄誉あるフランス国民が、第二のソ連では飽き足らず、今度は第二の支那になろうとするのか、冗談も休み休み言え――と。


 なにしろ鶴見は、信じていたのだ。赤旗下のフランスを目の当たりにしてなお、こんなものは一過性の現象であり、いつか必ず常態に復する日が来ると。


 フランス人の国民性は、決して共産主義とは相容れぬ。アカの種子が定着することは断じてないと、そう信奉し、信じる以上にかくあれかしと祈っていたのだ。


 そんな鶴見にとって無名戦士の墓にまつわるエピソードは、天を覆う暗雲から差し込んだ、一条の光に他ならなかった。

 


 人民戦線の連中が揃って無名戦士の墓にお参りをしやうとした処が、アンシャン・コンバッタン即ち世界大戦参加兵士一同が反対して之を拒絶した。その言ひ分が面白い。それは既に赤化して愛国心なき者共が、祖国愛の為めに名誉の戦死を遂げた凱旋門にあるお墓に、お詣りをする必要はないといふ趣旨からであった。フランス人の血は未だ腐敗して居らない。(171頁)

 


 一文字づつが、「痛快だ」と声を大にして叫んでいるかのような文章である。


 日本に於いては靖国神社アメリカならばアーリントン墓地。無名戦士の墓とは、そういうものだと考えておいて差し支えない。


 英霊たちが永遠に憩うこの墓所は、エトワール凱旋門の下に今も在る。

 

 

幼女戦記 (16) (角川コミックス・エース)

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鶴見三三と人民戦線 ―前編―

 

 欧州大戦開幕の日をドイツのベルリンにて迎え、その境遇を活かして前古未曾有のこの大戦を側面から存分に眺めた男、鶴見三三の「その後」に触れる。

 

 

 


 この男は、出世した。


 彼が国際連盟保健委員会の本邦委員に就任したのは大正十三年の一月であり、それから三ヶ月後の四月には、公衆衛生国際事務局委員会の役員をも兼任するに至っている。


 国際連盟保健委員会。
 公衆衛生国際事務局委員会。
 どちらも現在の世界保健機関――WHOの前身に当たる組織であった。


 以後、細菌教授として名古屋医科大学に赴任する昭和十二年のその日まで、鶴見はこの二つの組織で事務仕事に従事している。
 最初の四年間は、ずっとパリに駐在していた。

 

 

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(パリの街)

 


 滞在期間としてはこれが最長記録であって、其の後六度フランスに渡った鶴見だが、短ければ二ヶ月、長くとも八ヶ月で引き上げている。


 収穫は大きかった。

 


 或は仏国医学者に接触し或は仏国内或は国際医学会に出席し、或は新聞雑誌を通じて仏国に於ける医学の進歩を知得し又は医事衛生上施設の整備を見るの機会に恵まれた。(『明日の日本』144頁)

 


 特にパスツール研究所の人々との交わりは深く、昭和八年の秋不幸にも、同研究所の所長と副所長とが相次いで死没した際には、


「ルー及カルメット両博士を追想し日仏医学親善を提唱す」


 なる題名の小論文を発表、後の日仏医学論文交換発表会の実現に大きく寄与することとなる。


 フランスに対する愛着も生まれた。


 欧州大戦時の首相、「虎宰相」ジョルジュ・クレマンソーの自宅をそのまま使ったクレマンソー博物館を訪れてはその奥ゆかしい清貧な暮らしぶりに感動したりと、医学方面のみならず、文化や史学といった分野にも造詣を深めた形跡がある。

 

 

Georges Clemenceau 1

 (Wikipediaより、クレマンソー)

 


 それだけに、1935年「人民戦線」誕生からなるフランス社会の猛烈なアカへの傾斜には、とてつもない衝撃を受けたようだ。


 この「人民戦線」とは如何なるものか、鶴見自身の言葉を借りると、

 


 両三年前より社会党共産党は次第に近づき、五月に行はれた総選挙ではFront populaire即ち人民戦線を組織して勝利を得た。この勝利の原因は労働者の幸福とフランの切り下げを行はぬといふ旗印を掲げたことと、一方には独り労働者のみならず、一般国民が今日までの内閣の政策に不満を感じてゐた為めだが、裏面の消息を聞くと、モスクワから驚くべき金額をばらまいて買収した結果であると云はれてゐる。(163頁)

 


 およそこのような具合になる。


 まあ要するに、アカの親玉・ソビエト連邦コミンテルンが指導の下、労働団体・人権団体・自称「進歩的文化人等々、フランス国内に点在する左派勢力を糾合したモノとでも考えておけばそれでよかろう。


 なんともはや、聞くだに香ばしくてたまらなくなる組織ではないか。


 不穏分子の煮凝にこごりのようなこの連中が最も精力的にストやデモをやっていた時期、鶴見はたまたまフランスに居て、そのあまりの惨状に大いに驚愕させられている。

 


 先づルノーの自動車工場にストライキが起った。その言ひ分は勿論労働時間の短縮と賃金の値上げであった。最初は資本家対労働者間に普通に見る同盟罷業のやうであったが、話がなかなか纏まらず、押し問答をしてゐるうちに、貨物自動車運輸業者に飛び火がしたかと思ふと、田舎の方では瓦斯会社でもストライキを始めた。のみならずフランスの各地方に伝播し、又国境を越えてアントワープでも船荷役の人夫にまで波及した。(164頁)

 


 補足しておくと、アントワープベルギー国アントウェルペン州の州都で、同国最大の都市である。1920年には、夏季オリンピックも開催された。


 このオリンピックで男子テニスの熊谷一弥が銀メダルを獲得している、――日本人のスポーツ選手が史上初めて獲得したオリンピックメダルであった。

 

 

Zicht op het Delwaidedok

 (Wikipediaより、アントワープ港)

 


 大きな百貨店ルーヴル、ブランタン及ガレリー、ラファイエットの売子にも伝染して営業が出来なくなった。それからカフェーやレストランのガルソン(給仕人)も之に加はるだらうといふ噂があり、さうなったら、われわれ外国人にも直接の影響が及んで来る、のみならずその内メトロ(地下鉄)バスさては汽車の運転も中止するだらうとさへデマが飛んでゐた。(164~165頁)

 


 順調に都市機能が麻痺しつつある。
 革命の実績は伊達ではない。フランスはまったく、民衆運動が盛んな土地だ。
 その所為だろう、1875年に第三共和国が成立して以降、この人民戦線内閣が成立するまで実に101回も内閣が交代している。


 たった61年間に、101回の交代だ。


 平均寿命は、せいぜい七ヶ月程度に過ぎない。


 眩暈を起こしたくなる数字であろう。


 鶴見はこれを、「行き過ぎた個人主義の弊害」と評した。

 

 

フランス人民戦線: 反ファシズム・反恐慌・文化革命

フランス人民戦線: 反ファシズム・反恐慌・文化革命

 

 

 

 


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生臭坊主の化け医者遊び

 

 織田信長比叡山を焼き討ちした際、突き殺されて炎の中に投げ込まれた死体の中に、数百の女子供が混じっていたのは有名な話だ。


 多くの聖域そう・・であるように、王城の鬼門封じに相当する至高至尊のこの巨刹にも、女人禁制の結界が張られているはずだった。


 ところが現実の有り様ときたらこう・・である。


 宗教というものの本質が、これほど赤裸に暴露された例も珍しかろう。そういう意味で、信長という男はやはり画期的な人物だった。
 教義を守れと口やかましく説教し、現世利益を放棄させ、浄土に迎えられる幸福を熱弁する輩ほど、裏では都合よく教義を枉げて俗界を享楽しているものである。そのことを、遠く後世に及ぶほどの強烈さで証明してのけたのだから。


 作家の塩見七生氏が、この比叡山焼き討ちや石山本願寺攻め、伊勢長島に代表される一向宗との対決等々、そうした一連の「狂信の徒の皆殺し」をして織田信長が日本人に与えた最大の贈物」と評したのも納得がいく。

 

 

Enryakuji1

 (Wikipediaより、延暦寺焼き討ち)

 


 しかしながら第六天魔王の業火を以ってしても、僧侶の性根を変えることは不可能だったようであり。
 性懲りもなく女郎買いをたのしむ坊主頭を揶揄する歌が、江戸期を通して数多詠まれた。

 

 

医者は医者 だが薬箱 持たぬなり

 


 この句はその一例である。


 江戸時代の医者というのは不思議な職で、
 武士でもないのに苗字帯刀が許されて、
 僧でもないのに剃髪するのがならわし・・・・という、
 奇妙としかいいようのない位置付けがなされた存在だった。


 この特徴に目をつけたのが生臭坊主。彼らが女遊びを営むときには決まって医者に変装してからしたもので、こういう手合いは「化け医者」と呼ばれるのが常だった。

 

 

舟宿へ 来て狼も 医者に化け

 


 狼とは袈裟を着たケダモノ、すなわち破戒僧を意味しており、舟宿に酌婦がついたのは勿論である。

 

 

中宿へ 出家這入ると 医者が出る

 


 遊里に通う者の休憩所、または客と遊女との連絡場所としても機能したのが「中宿」である。


 この「中宿」の経営者もそこは呼吸を心得たもので、変装のための諸道具が常備されていたりした。


 そういえば大正・昭和の慈善病院の近所でも、ちょっと探せば貸衣装屋の一件や二件は容易に見つかったものであり、そこでは何故か薄汚れたボロの衣装を多めに扱っていたそうである。


 時代は変われど、人の心は変わらない。

 

 

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脈を見て おくんなんしに 化けが割れ

 


 さて、数珠と法衣を手放して一本差しのそれらしい風体をつくろいイザ廓内に乗り込んでも、


「このところ胸がつかえて、お医者サンならちょっと脈を測っておくんなし」


 などと攻め寄せられるともう駄目である。


 本職とは手の握る場所も、握り加減もまた違う。


 ある意味同時代の誰よりも人間通な遊女たちが、その違いを見落とすことは決して無かった。

 

 

夕べには 医者あしたには 僧となり

 


 もっともそれを問題にするような風潮はあまりなく、「化け医者」を題材とした句の数多さを鑑みるに、「僧とはそういういきものなのだ」という認識を、世間一般がごくさりげなく共有して受け容れていたような雰囲気さえある。


 これもまた、泰平の世の効能だろうか。

 

比叡山の僧兵たち (別冊淡海文庫)

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夢路紀行抄 ―葦名流 対 二天一流―

 

 夢を見た。


『隻狼』の葦名一心と、刃牙道』の宮本武蔵が立ち合う夢だ。


 どうしてそうなったか、経緯についてはよく憶えていない。

 確か私の夢世界では武蔵は一心の食客で、彼の屋敷で起居する身分であったのだ。
 その武蔵がふとしたことから同じ食客の一人を殺し、その流血が火種となって誘爆が連鎖、最終的に一心がケジメやら何やらのために武蔵を斬りに出動する――そんな流れだったように思われる。

 


 武蔵の刀を、同じく刀で以って撃ち払える人間。

 


 そんなものは三千世界を隈なく探せど、せいぜい片手で数えきれるほどしか存在すまい。


 そして葦名一心は、世にも稀なるその指の中の一本だった。

 

 

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 向かい合うは互いに剣鬼。瞳の奥に、斬ることが好きでたまらぬ修羅を宿してただひたすらに斬り続けた二人の男。


 屍山血河の頂に立つ怪物同士、その闘いが人智を超えたモノになるのは、至極当然のことだった。


 風切りの音すら遅れて聴こえる。
 斬撃の軌道は、もはや光としてしか認識できない。
 刀身が目に映るのは、「弾き」のほんの刹那だけ。
 舞い散る火花が宙に溶けるよりなお早く、次々「弾き」が行われるため空間を占める白熱光は常軌を逸して増加して行き、ついには輝きの滝とも呼ぶべき幻想的な光景を生む。


 ただ剣のみをよすがにこの異界を現出せしめた両雄は、一貫して笑顔であった。

 


 私がこよなく愛読する柴田ヨクサルの傑作漫画、ハチワンダイバーに次のような一幕がある。

 


「『善は急げ』 よね」
「善?」
「そういうことだ これが“善”だ」
「何が“善”だ?」
「おまえは何のために強くなった?」
「暗殺のため」
「強い者同士が戦うのが“善”だ」
「“善”よ」
(さ… サルかよ)

 


 皆口由紀。
 尾形小路明太。
 ジョンス・リー。


「武」の方面で最高レベルに突出した三名が、一堂に会した際のやりとりである。

 

 

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 初めてこれを読んだとき、「あっ」と息を呑まされたものだ。


 完璧だった。


 これほど爽快で得心のいく「善」の定義は、未だに聞いたことがない。


 そしてこの筆法を以ってするなら、昨夜の私の夢の中は、間違いなく最高純度の「善」によって満たされていた。


「善」は即ち「美」にも通じる。最近流行りの、絶対者による一方的な虐殺には華がない。
 実力伯仲した強敵同士、勝敗の帰趨常に揺蕩う、対等の殺し合いであってこそ、血腥いこの行為にも漸く美しさが宿るのだ。


 そのあたりの事情をよく呑み込んで、私の無意識は実にいいものを見せてくれた。

 


 きっちり決着をつけたことも評価したい。


 夾雑物の一切ない、純粋で濃密な時間が過ぎ去った後、残りし影はただ一つ。
 葦名一心が、宮本武蔵を斬り伏せていた。

 

 

 

 

 


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