「英国紳士」のイメージ像に、パイプの存在は欠かせない。
真っ黒なシルクハットの下、静かにパイプをくゆらし思索に耽る人物風景を目にしたならば、誰しも彼の国籍をイギリス人だと推察しよう。同時に彼の腹の底で、どれほどえげつない奸計が張り巡らされているのかとも。
パイプ――喫煙の習慣が、斯くも英国と密接に結びついた
王政復古間もないイギリスの天地を襲い、ロンドンだけでも七万の死者を数えたこの疫病は、同時に一つの迷信を生んだ。
すなわち、「タバコの煙は疫病の悪気を追い払う」という迷信を。
ヨーロッパに於けるタバコの歴史は存外浅い。1492年にコロンブスが新大陸を発見するまで、「特定の植物に火をつけその煙を吸引する」などということは、彼らの全然考えざることだった。
だからコロンブスが初めてそれを見たときも、あれは原住民独特の、身体のいぶし方だと思い込んだほどだった。当時のアメリカ原住民の喫煙法は、地に穴を掘って中でタバコの葉を燃やし、そこに植物の茎やY字型のパイプ――二股に別れた先の両端を、鼻の穴に入れて使う――を差し込み煙を吸うというもので、この勘違いにも無理はない。
斯くの如く、タバコの存在そのものはコロンブスの探検により「発見」されはしたものの、その現物が欧州世界に持ち込まれるのはおよそ半世紀後の1559年のことである。なんでもフィリップ二世が派遣した、スペインの医師がはじまりらしい。
その翌年にはポルトガルの駐仏大使、ジャン・ニコット・ド・ヴィルマンも、リスボン経由でタバコの葉をフランス社会に流通させるべく周旋している。このような具合でタバコは当初、スペイン・ポルトガルを窓口とし、もっぱら「医薬品」の名目で、他の欧州諸国に広まっていった。
イギリスはむしろ、後発に属する。
にも拘らず「パイプと言えばイギリス人」というイメージが誕生したのは、「エリザベス女王の前でもパイプをふかしてのけた男」、サー・ウォルター・ローリーの活躍もあろうが、やはり疫病の大流行が与って大きく力ある。
(Wikipediaより、ウォルター・ローリー)
病を避ける――死にたくないの一心で、老いも若きも、男も女も、誰も彼もが狂気したように煙を吸った。
事実、それは他の欧州諸国から眺めれば、イギリス人が国を挙げて総発狂したとしか思えなかった。なにせ、六歳の子供でさえもが大人顔負けの堂々たる手つきで以ってパイプを咥え、一服、また一服とふかすのである。
1671年にイギリスを旅したフランス人は、その紀行文に以下の如く書き記した。
ウスターの街を歩いて居ると、よくフランスでも英国のように喫煙の習慣があるかと聞かれることがままある。何しろ英国では子供が小学校へ行く時には、よく気をつけて子供のカバンの中にパイプを一本入れてやることを忘れないやうにする。これが朝食の代わりになるのである。愈々学校へ行って授業が初まると一くぎりついた所で先生は生徒と一緒に煙草をのみはじめる。そして其間にどう云ふ風に煙草をのむかパイプはどう握るかと云ふやうな方法を教授する。かうして学校ですっかり喫煙術を教へこむのである。何分にも喫煙は人間の健康上絶対的必要物なりと信ぜられて居るのだから仕方がない。(『煙草礼賛』25頁)
喫煙を学校が推奨するとは、今日からすれば悪い冗談のような光景だ。
いや、推奨するどころではない。もし煙を吸うのを拒否するような子供が居れば、たちどころに厳しい折檻が浴びせられたというのだから、もはや「推奨」ではなく「強制」だった。
当時の人々が如何に疫病を恐れていたかがよく分かる。縋れるものなら、文字通り何にでも縋ったのだろう。
アメリカ原住民にとって、喫煙は宗教的色彩も強かった。べつだん珍しいことではない。多くの原始社会に於いて、快楽を齎す自然物――コカの葉やケシ坊主といったような――は、「神からの賜物」扱いされる。
成分調査など、やりたくても出来なかった時代の話だ。イギリス人が紫煙に神秘的効能を幻視して、そこに救いをもとめたのも蓋し必然と言わねばならない。
もっとも当時のフランス人はそんな風には見てやらず、ドーバー海峡の向こう側の狂乱ぶりを総括し、
この嗜好が英国人をして無口な沈みがちな、応容な人間に仕立て上げてしまったことは争はれない。土台、煙草といふものは人間を瞑想的な神学的気分に導くものである。世界中で英国の牧師位煙草の好きな人間はないのだから、彼等が同時に世界で有名な神学者揃ひであることも一向不思議でも何でもない。(27頁)
と結論付けたが。
これもまた、両国の国民性をよく表した名文である。
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