穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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「匪梳兵箆」の中国社会

 

 中華民国台湾へ追い落とされる以前の話、未だ彼らが大陸中央に座していたころ――。


 彼の地の人口に膾炙された四字熟語に、「匪梳兵箆」なるものがあった。


 ――すなわち馬賊や土匪の掠奪は、あたかも荒櫛で梳き取るように行われ、そのぶん取りこぼしも多いものの、兵隊となるとそうはいかない。彼らはへらで掻き取るように、何もかもを奪い去る。
 よって中華の人民が恐れたのは馬賊による襲撃よりも、それを討伐しに来る官軍兵をこそだった。

 

 

Spatula I

 (Wikipediaより、へら)

 


 当時の中国に於ける兵士・警官の精神気質は、同年代の如何なる国家と比べても全然別種の観がある。


 端的に言えば、彼らは苦力クーリーの一種に他ならなかった。


 雇用するのが国家か民間か――違いといえば本当にその程度のものでしかない。


 制度も実に粗雑なもので、官衙募集」の広告を見て応募してきた連中を、ろくな審査もせぬままに十把一絡げ方式で採用するまでのことである。


 住所不定前歴不明の怪しさが服を着て歩いているような輩でも、なんの問題もなく嘘のような容易さで兵士や警官になれるのだ。これほど恐ろしい話はない。


 採用後、彼らは少しばかり形式的な訓練を受け、それが済むともう銃を担い剣を帯びて兵務に就かされることになる。


 むろん、案山子以上のどんな役にも立ちはしない。識字率も地を這うような有り様で、国家の防壁、治安の守り手という意識など、塵ほども持ち合わせてはいないのだ。


「好鉄不打釘、好人不当兵」の伝統が極まった姿であったろう。


 だから「雇用主」たる官憲側でもこの連中に信頼など欠片も寄せず、期待するのはせいぜい装飾物程度の役割のみに過ぎなかった。


 官庁の財政が悪化して月給が不渡りになるとか、困難な仕事を命ぜられたりとか、あるいは業務上重大な過失を犯して罰を受けるのが確定するとか、そういう自己の不利益の気配を嗅ぎつけるや即座に逃げ出す苦力連に、命懸けの戦争など期待するだけ無駄であろう。

 

 

Coolieresting

Wikipediaより、1900年頃の苦力) 

 


 ゆえに匪賊の跳梁が通報されて討伐隊が編成されても、その歩みときたら牛のそれよりなお遅い。僅かばかりの月給で抱えられ、命が惜しい手合いばかりの集団だから、こうしてノロノロ行軍している間に匪賊がその欲望を満たし切り、自分達が着くころにはとうに撤退済みであれかし――そう念願しての行動である。こういう頭脳あたまの働かせ方を、彼の大陸では「知恵」と呼ぶのだ。


 さて、如何に遅くとも兵士たちは「行軍」しているのである。当然、その日その日で寝泊まりする施設が必要になる。


 運悪くその「宿泊先」に指定されてしまった市街村落ほど悲惨なものは他にない。

 

「軍規」などという言葉自体知らないような彼らのことだ、無銭飲食は当然のこと、白昼路上で婦女を犯し、民家から金品を強奪し、殺人さえも平気でこなす。


「匪梳兵箆」と、匪賊より兵隊の方こそ忌まれ嫌われ恐れられた理由がわかるだろう。


 前者による掠奪は無法者ゆえ退き際を意識するところが濃厚であり、目当ての富豪のみを襲ってあっという間に影も形も見えなくなる――さながら一過性の嵐の如き場合もあったが、公権力の威光に包まれている後者に於いてそれはない。彼らはめぼしいものを奪り尽くすまで悠然と居座り、まさしく箆で掻き取るように一切合財を攫ってゆく。


 そして若し、運悪く目的地まで到達しても未だ匪賊が撤退しきっていなかった場合、兵士たちはこれに対して遠巻きに銃撃を加えるのみで、間合いに踏み込もうなどとは夢にも思わぬ。これは後の十五年戦争を通してもよく見られた行動で、折角夜襲を仕掛けていながら有効射程距離の遥か外側でいたずらに銃をぶっ放す中国兵の行動に、多くの日本兵が理解不能と首を傾げたものだった。

 


 笑止千万な支那軍の夜襲。
 日本陣地の前まで来て喇叭を吹き、悲鳴を挙げ自ら射撃して戦場を騒す。せいぜい陣地前五十メートルより近づくことはない。だから安心して撃退が出来る理だ。倒れて居る奴も銃に着剣して居ないのが大部分とは一寸解せないではないか。
 聞けば支那軍の夜襲は日本軍をやっつける為めでは無く恩賞金を徴達する手段とは益々笑止な話だ。即ち弾丸を射ち音声を発して今夜夜襲して居るぞといふ事を後方の者に知らしめ後で夜襲料を頂戴する由――滑稽々々。(昭和十年『江南の戦』237頁)

 


 彼らを雇う官憲としても目的とするのは匪賊どもの首級くびでなく、ただ匪賊が自己の管轄区域内から消えてくれさえすればそれでよいので、こんな馬鹿げた沙汰事が平然と罷り通っていたわけだ。

 

 

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 やがて21世紀に時代は移り、大陸の支配権も共産党に強奪されて、斯様な悪習もなりをひそめたかのように思われた。

 


 ところが先日、香港デモ隊に参加していた16歳の少女が警察署に監禁されて、警察官から集団性的暴行を受けた挙句、妊娠の事実が明らかになりクイーンエリザベス病院で中絶手術を受けたという耳を疑いたくなるニュースが。
 病院側の発表によれば妊娠は事実で、妊娠期間は拘束されていた期間と一致するとのこと。


 衝撃的という言葉さえも陳腐化する言語道断なこの現実は、中国社会が未だに「匪梳兵箆」の悪風から脱け出しおおせていないことを示している。

 


 部落に入って見ると全部掠奪を受け実に惨憺たる様を残してゐる、其処には女の死体さへ横はってゐるではないか。此の世に鬼畜に類するものありとすれば実に支那兵である彼等こそ此世の悪魔だ、悪魔以外の何ものでもあり得ない。
 家屋内を隈なく捜索すると逃げ遅れた奴が命欲しさに藁の中にもぐり込んでゐる、引張り出してみると全くの丸腰だのに懐中には掠奪したばかりの金を一杯詰め込んでゐる。地獄の沙汰も金次第位に思ってゐるのだらう。こういふ者には地獄の沙汰も金次第であるかどうかを体験させてやるのも必要だ。(同上、219頁)

 


 彼らの本質は八十年前のこの時から、否、きっと数千年の昔から、少しも変化していない。
 千年後も、きっと今のままだろう。

 

 

日中戦争は中国の侵略で始まった

日中戦争は中国の侵略で始まった

 

 

 

 


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北米大陸を繋げる旅へ

 

 今日は記念すべき日だ。小島プロダクションの新作ソフト、『デス・ストランディングが発売された。


 早速のこと、買ってきた。

 

 

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 ゲームの発売をここまで待ち遠しく思ったのは、『隻狼』以来のことやもしれぬ。


 中学生のころMGS2に触れ、その独特過ぎるテーマと演出の虜となってからというもの、私はずっと小島プロダクションのファンだった。『デス・ストランディング』の世界観はクトゥルフ神話をモチーフにしながら、同時にこの監督ならではの無二の味付けが濃厚だと聞く。好物と好物のかけあわせ、興奮するなというのが無理な話だ。


 本作をムービーゲーだの何だのと揶揄する声が既にあちこちから聞こえているが、MGS4神ゲーと信じる私にとっては願ってもないこと。むしろ『MGS5』に感じた不満は、そのムービーゲー要素が少ないことでこそあった。


 よって、本日よりまた暫くの間このブログの更新が滞ることになるであろうが、どうかご寛恕願いたい。


 脇目もふらさず、思う存分本作に没頭したいのだ。

 


 ――ああ、本当に久方振りだ。これほどの高揚感に包まれながら、コントローラーを握るのは。

 

 

 

 

 


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日本人留学生の目撃したる第一次世界大戦下のヨーロッパ ―後編―

 

(なんだ、ありゃ)


 ロンドンに到着して早々、鶴見は異様な光景に面食らっていた。


 そこここの広場や公園で、ざっと二・三十人程度からなる人間集団の数々が、おイッチニ、おイッチニと行進の練習をやっている。


 が、お世辞にも足並みが揃っているとは言ってやれない。不統一といえば、第一服装からしてそうだった。


「背広姿が多いが、紺あり黒あり縞あり、帽子は鳥打あり山高あり、その有様千種万態(17頁)といった具合であって、後々これが「キッチナー・アーミー」と呼ばれる志願兵の集団だと知ったとき、鶴見は甚だ意外な感に打たれた。


(大丈夫なのか、あれで)


 留学中、ドイツに於いて日常的に目にしてきた、統一された服装のもと、精密機械さながらに整然と動く兵士や士官の姿に比べ、まったくなんという差であろう。
 この二つの軍集団が激突した場合、


(英陸軍は、鶏卵よろしくひとたまりもなく叩き潰されるのではあるまいか)


 ということは、素人目にも――否、素人の身であればこそ、外見の印象から受ける影響は大きく、そう予測せずにはいられなかった。


 このキッチナー・アーミーは、かの有名な「英国は君を必要としている」の宣伝ポスターを筆頭にした巧妙なプロパガンダによって瞬く間に膨れ上がり、最終的にはなんと四十八万もの多きに到達。


 既存のイギリス陸軍は十万に届かなかったというから、ほぼ五倍近い兵力を得たことになる。

 

 

Kitchener-leete

 (Wikipediaより、キッチナーの募兵ポスター)

 


 彼らは1915年に海峡を渡り、フランス本土に上陸。翌年7月から始まったソンムの戦いに投入され、初日にして死傷者七万人という惨憺たる損害を記録している。


 第一次世界大戦を通して、一日の戦争の被害としてはこれが最大のものだった。


 それほどの犠牲を出してなお、戦果はほとんど皆無に等しく、「寸土を得ることも出来なかった」と評されている。

 


 少々脱線したようだ。
 話を、鶴見三三の身の上に戻そう。

 


 ロンドンには彼以外にも、ドイツから逃げ出してきた日本人留学生が大勢いた。


「17日までベルリンに留まっていた連中は、一人残らず抑留されて檻の中にぶち込まれ、命さえも覚束ぬそうだ」


 などと声を潜めて噂し合う彼らの念願するところは、一様に日本への帰還である。


 どうせ戦争が始まった以上、英国でも満足に勉強など出来はすまい。いやそれどころか、戦局如何では此処も兵火に巻き込まれ、命を奪われぬとも限らない。


 ここはさっさと見切りをつけて、祖国へ引き揚げるのが善し――と、我先にと船に乗り込む邦人が、圧倒的に大多数を占めていた。

 

 

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 が、鶴見はそうした周囲の声に倣わない。
 あろうことかこの男は、日に日に危険性を増す欧州に、なおも残り続ける道を選んだのである。

 


 私も考へた。その頃まで英国の医学は日本にはよく知られて居らず、知らずして軽蔑してゐるが如き点もあり、英語は中学で習ふたままであるから知らぬも同様だ。併し留学期間二年の半ばにも達して居らぬ。今帰朝しては一年以上を棒引にされる。それに戦争の模様も見たいし、ベルリンから一緒に遁げて来た友人と相談の上、私等の知人の大多数は先に述べたように競争して帰朝したのに、私等二人は断然ふみ止まることに決心した。(18頁)

 


 豪胆としか言いようがない。


 鶴見がイギリスで拠点としたのは、ロンドン中心部の一角を成すハムステッド地区だった。緑豊かで古くから文人が多く住み、21世紀の現在は高級住宅街となっている。


 古色蒼然たるこの街にも、ドイツ航空隊は容赦なく爆弾をばらまいた。


 30年後には――不幸極まりないことに――数多の日本人が味わわされる空襲であるが、それを1915年のこの時点で再三再四実体験した鶴見という人物は、かなり稀少な例ではないか。

 


 闇の世で風なき晩はよくやって来た。だからしまいには今夜も来るぞと云ふ気持になった。最初はツェッペリン飛行船であったが後では飛行機でもやって来た。殆んど毎晩要所々々で探照燈を十文字に照し、飛行船を発見すると、高射砲を乱発する、この光を見、この音を聞いては、よい気持のするものではない。英国側では見張を海岸におき、ドイツの航空機を見付けると電話でロンドンの衛戌本部に通知し、自動車で喇叭を吹き市民に知らせることになってゐた。さて空襲だなとなると各戸では地下室にもぐり込み、街を歩いてゐる者は早くチウブ(地下鉄)に飛び込むようにした。(23頁)

 

 

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 鶴見三三の面白さは、彼自身「よい気持のするものではない」と内心の不安を吐露しているにも拘らず、戦争それ自体に対する興味のほどは一向薄れなかったことである。


 薄れなかったどころではない。彼はそのうち、空襲だけでは満足できなくなっていった。


 戦火に覆われた欧州大陸の実際を、どうしても自分の眼で見確かめたくなったのだ。


 半ば狂気とも言えるこの願望を彼が実現させたのは、留学期間の切れる間際、1916年の春のこと。


英仏海峡でどれほどの船が、ドイツ潜水艇の餌食になって藻屑と消えたか知らないのか」


 危険すぎる、止めておけ――と、友人からの至極真っ当な忠告すら振り切って、鶴見は敢然その途に着いた。


 ドーヴァー・カレー間の航路は既に連合軍の専用航路と化しており、民間の利用が不可能であることは事前の調べで分かっていた。


 よって使うべきは、フォークストン・ディエップ航路こそだろう。そう思ってフォークストンに出かけてみると、こはいかに、連絡船の時刻表がどこにもない。


 誰に訊ねても、一人として教えてくれはしなかった。それもそのはず、不用意に出航の時刻を発表すると、至る処に巣を作っている獨探が直ちに本部へ通報し、その便はあえなく潜水艇の餌食になってしまうのだ。


(戦時なのだ。仕方ない)


 場合によっては二、三日ここで待機する覚悟を決めた鶴見であったが、幸いにしてその日の夜半、船が出る、乗る者は急げとの連絡が。


 船は一点の燈火もつけず、息を殺すようにして闇の海面を滑っていった。

 

 

Strait of dover STS106-718-28

 (Wikipediaより、ドーヴァー海峡の衛星画像)

 


 その間、鶴見が奇妙に思ったことは、船室に入る者がほとんどおらず、およそ八割方の乗客は甲板に陣取り緊張に目をとんがらせていたことである。


 5月とはいえ、この年は気候不順でまことに寒い。吹きつける風は千本の針で刺すようだ。


 にも拘らず、何故こんな苦行を敢えてするのかというと、命が惜しいからだという。

 

 もし万一、船に魚雷がぶち込まれ、沈没の憂き目に見舞われた際、甲板に居た方が早く海に飛び込める。
 ほんの僅かな差だろうが、生者と死者を分けるのは、存外紙一枚ほどの僅かな差だ――そんな訓戒を聞きながら、およそ二時間も走ったろうか。


 なんの前触れもなく、ドカンという大音響が響き渡った。


(あっ、来やがったか)


 さしもの鶴見もこの瞬間ばかりは恐怖で脳が麻痺したような状態に陥り、走馬灯を垣間見ている。


「きゃあーっ」


 と、女性の乗客の中で絶叫する者があり、甲高いその音響がまた、一同の神経をパニック寸前まで追い詰めた。


 が、幸いそれ以上のことはなく、船員の必死の周旋もあって船はディエップの港に無事到着。鶴見はここで一泊し、翌日パリ行の列車に乗っている。

 


 パリへ着いた。始めて来たのであるが、いかにも火の消えたやうな感じがする。往来で出逢ふ男といふのは子供か老人ばかりだ。従って今まで男がしてゐた仕事を女が代ってやってゐる様子が明に認められた。(29頁)

 


 第一次世界大戦女性の社会進出に大きく寄与したのは事実である。

 


 パリも同様、否ロンドン以上に空襲を受けつつあったので、夜は真くら闇、オペラはなし、芝居も殆んど休業の姿で流石享楽の都として知られてゐるパリでも変りようが烈しいと思はれた。(同上)

 


 この後、鶴見はイタリアへ渡り、更にスイスに入ると首都ベルンにて久方振りにドイツの書物や新聞紙に触れている。


「前古未曾有の大戦争を側面から存分に眺められた」


 一連の旅路に、本人はあくまで満足気だった。

 

 

City of Berne

 (Wikipediaより、ベルン)

 


 最初こそは偶然だったが、後にはみずからの意志で以って、進んで歴史の生き証人になったのである。


 あっぱれ見事と膝を打って讃嘆したい。鶴見三三、己が情熱にひたむきなこと、男らしすぎる漢であった。

 

 

第一次世界大戦  忘れられた戦争 (講談社学術文庫)

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日本人留学生の目撃したる第一次世界大戦下のヨーロッパ ―中編―

 

 本国からの通信が漸く届いた正確な日付を、鶴見三三は憶えていない。『明日の日本』中に於いても、「八月九日か十日であったか」と曖昧な語り方になっている。


 通信を受けて以後の展開が、灰神楽の立つほどに慌ただしかった所為であろう。日記をつける暇もなかったというわけだ。


 8月4日に英国が参戦して以来、毎日欠かさず大使館に立ち寄って本国の動向を訊ねては、職員の困惑した表情のみを手土産に虚しく辞去するしかなかった鶴見だが、その日は明らかに館内の空気が異なっていた。


 触れれば裂けんばかりに張り詰めている。


 訊けば、丁度暗号電信が到着したばかりだという。


 館員という館員が皆、その解読を固唾を呑んで待ち焦がれている最中であった。


(ついに来たか)


 職員の緊張は留学生の鶴見にも一瞬にして感染し、胃の腑を弱火で炙られるような、この上なくじれったい時間が暫く続いた。


 やがて解読が終了し、鶴見たち留学生の集められた部屋に息せききって駆け込んで来たのは重光葵。のち、幾度となく外務大臣に就任し、1945年には戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印したこの人物も、1914年のこの段階ではいち書記官に過ぎなかった。

 

 

Mamoru Shigemitsu

 (Wikipediaより、晩年の重光葵

 


 とまれ、重光葵の言うところでは、

 


「最早諸君はドイツにゐる場合ではない、一日も早くドイツを引き上げろ、それには日本文字で書いたものは勿論、横文字の書物も持って行かぬがよろしい、それに行く先は英国か、スイスの二方面ではあるが、何れにしても国境通過が面倒である、場合によっては五、六マイルは歩く覚悟が必要である(12頁)

 


 これを受け、居合わせた誰の眼にも日本の腹の内がはっきり視えた。祖国はやる気・・・だ。
 とすれば、自分達は敵地の真っ只中に居ることになる。


(冗談じゃない)


 気の早い者はその日のうちに大荷物を抱えて大使館を再び訪れ、それを地下室に放り込み、小さな手提鞄一つの身軽になると直ちにドイツから脱出していったケースもあった。


 が、鶴見三三その人は、8月15日に至るまでベルリンから出てもいない。


(ワッセルマン博士に暇乞いをしなければ)


 律義にそんなことを考えていたあたり、よく言えば高潔、悪く言えば暢気な人柄なのだろう。
 暢気といえばこの人は、開戦直後にワッセルマン博士の語った、

 


「戦争になったが、これは永く続かない、まづ三ヶ月か半年位のものだ、ドイツの策戦は先づフランスを叩き一ヶ月でパリを落し入れ、後東部戦線に全力を注ぎ露国を潰滅するのだ。参謀本部では長年研究の結果策戦が出来て居り、ドイツの世界制覇も近き将来である。だから君はベルリンに止まり、此処で勉強してゐて差し支はない。ベルリンは一番安全な処だ(10頁)

 


 所謂「クリスマスまでには帰れる」式の文言を半ば信じ、更にワッセルマン博士自身もゆくゆくは軍医として前線に向かう所存だと打ち明けられると、ついそれにつり込まれるような格好で、


「それならば、いっそ、自分も」


 ドイツ赤十字の手伝いでもしましょうかと打診してしまったほどである。


 斯くも威勢のいい前言を、もう翻さねばならぬかと思うとなんとも気が重かった。

 

 

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(鶴見三三、近影)

 


 が、鶴見は後ろめたさに屈しない。
 あくまでワッセルマン博士に別れを告げに赴いた。

 


「先日はベルリンにふみ止まってゐて勉強するやうにお話しましたが、きのふ大使館に行き今後の態度につき相談して見た処、今やドイツの周囲は皆敵国となり、吾々ベルリン在住の日本人と本国との間には通信も絶たれ、送金して貰ふことも不可能になった。それでは勉強したくとも金が無い、従って一時中立国に立ちのくより方法がない。過日のお話によると此の戦争は三ヶ月、長くて半年とのことであるから戦争が済んだなら、も一度此処に来て勉強をさしていただきたい(13頁)

 


 鶴見は弁じた。


 日本が対独開戦に腹を決めたということについては秘匿を守り、退去の理由をあくまで経済的事情に求めながら。


 実際、これは嘘ではない。留学生の中にはいざドイツから脱出しろと言われても、旅費の工面がどうにもつかぬ貧乏学生が相当数いて、彼らのために大使館は官金を引き出し一人あたま500マルクづつ貸し付けてやったほどである。


 が、この程度のカモフラージュに惑わされるほど、ワッセルマンとは甘い男ではなかったらしい。
 鶴見の言葉を聞くにつれ、彼の表情はこわばりを増し、


「なるほどそういう事情なら、ドイツを立ちのくのもやむを得まい」


 と一応は首肯する態度を見せたものの、「しかし」とすぐさま付け加え、

 


「併しはっきりと申し渡しておくが、日本がこの戦争に中立を守ればよし、然らずしてドイツの敵となる場合は、仮令戦争が済むでも君をこの研究所で勉強さする訳にはゆかない。否独り君ばかりではない、凡ての日本人留学生に対しドイツのどの大学も、どの研究所でも勉強するのを許さなくなるだらう(同上)

 


 一句一句、杭でも打ち込むような口調で以って、斯く厳命したのである。


(……見破られたか)


 ここで恫喝されたと不快感に駆られるよりも、師に偽りを述べたことへの後ろめたさが先行し、思わず悄然としてしまったあたり、鶴見の人の好さが窺える。
 その様子を見て、ワッセルマンの方でも


(言い過ぎたか)


 と思ったのだろう。やや表情を緩めて、


「それで君は、どの中立国に向かう気かね」


 と鶴見に訊ねた。


「オランダに行くつもりです」
「ああ、オランダなら」


 自分の友人も大勢いる、紹介状を書いてやるから彼らを訪ねると良いと言い、すぐにその場ですらすらと、二三枚の手紙をしたため渡してくれた。

 

 

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 もっともこの紹介状を、鶴見が使ったかどうかは定かではない。


 たぶん、未使用のまま鞄の奥に秘されたのだろう。何故なら鶴見は確かにオランダに向かうことは向かったが、そこに留まることはなく、フリシンゲンの港から、イギリスに直行してしまったからである。 

 

 

イエーガー マイスター 700ml

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日本人留学生の目撃したる第一次世界大戦下のヨーロッパ ―前編―

 

 そのころのベルリンに、鶴見三三さんぞうという名の日本人が、医学留学のため滞在していた。


 そのころ・・・・とはすなわち、
 バルカン情勢が日に日に悪化し、
「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、
 列強の何れもがこの「火薬庫」を解体し得ぬまま、
 ついにサラエボ事件の凶弾により一大爆発を見る破目になり、
 全世界規模で風雲急を告げ始めた、
 第一次世界大戦勃発間際のことを指している。


 昭和十一年に刊行された鶴見三三自身の著作、『明日の日本』の記述に依れば、当節彼が籍を置いていた研究所の名はカイザー・ウィルヘルム研究所。焦げ臭さを増す時勢に対し、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいられぬことはその名を一瞥しただけで分かるだろう。


 現にサラエボ事件以後、この研究所はシャカリキになって赤痢及びコレラの予防接種液を生産している。
 鶴見がその理由について、所長を務めるワッセルマン博士に訊ねてみると、


「東部国境に出かける兵士に注射するためのものだ。戦争はもはや不可避だろう」


 そんな答えが返って来、思わず鶴見を戦慄させた。

 

 

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 ワッセルマン博士の名は、ひょっとするとワッセルマン反応でご存知の方もいるかもしれない。1906年梅毒の血清学的診断法を発見した、A.ワッセルマンその人である。


 彼が予言した通り、1914年8月1日、ドイツはロシアに宣戦布告。露仏同盟の手前、同時にフランスをも敵に回すことになり、ここに騒然たる戦火の歴史の幕が上がった。


 が、鶴見留学生にとって特に印象深い出来事はその日ではない。


 宣戦布告の翌日の、2日の夜こそそれ・・が起きた日であった。


 この晩、二・三人の留学仲間と語らってウンター・デン・リンゲンに位置するとあるカフェに乗り込んだ鶴見は、まったく予想だにせぬことに、店内にいたドイツ人というドイツ人から引きも切らぬ歓迎を受けた。


 分厚い手で肩を叩かれ、愛嬌たっぷりの笑顔を向けられ、さあさまずは一杯と、コップにビールをなみなみ注いで差し出してくる。こんなもてなしを受ける心当たりが、しかし鶴見には毫もなく、目を白黒させていると、一人がやにわに号外記事を差し出してきた。


 見れば、「Jppan hat den Russland erklaert」――「日本はロシアに宣戦せり」と、デカデカと書かれているではないか。

 

 

 


 この虚報については以前、上の記事に於いても触れた。
「数千の群衆が日本大使館の前に押し寄せ万歳を叫び、民衆のみならず総参謀長までもが半ば真に受け、特使を派遣して風説の真否を訪ねた」と。


 その熱狂の渦に現に巻き込まれた日本人の証言として、鶴見の存在は貴重である。

 


 吾々はあっけに取られて、イヤこんな事は知らないと云ふと、日本人は今日からドイツの味方だ、まあ一緒に祝杯を上げようと、ビールの満をひき、それから各方面のカフェーをのぞいて見ても何処も同様で愉快な晩であった。(『明日の日本』8頁)

 

 

Berlin Unter den Linden um 1900

 (Wikipediaより、1900年ごろのウンター・デン・リンゲン)

 


 ところがこの親日ムードは、実に儚い。砂漠に落ちた雨さながらに、三日と保たず消えてしまった。


 契機きっかけは、8月4日にベルリン駐箚の英国大使が旅券を要求したことによる。


 外務大臣ゴットリーブ・フォン・ヤゴーは蒼白になった。この時期に大使を引き揚げさせる理由は一つしかない。彼らはドイツと敵対する気だ。事実、それから数時間と経たない内に正式な宣戦布告の通達が。


 イギリスは局外中立を決め込むだろうと見積もって、それをすべての計算の基礎に組み込んでいたドイツにとって、これほど衝撃的な事態はない。


 またしても号外が乱れ飛び、「rings um Feinde」――「四方皆敵」と大書されたその見出しが国民の敵愾心を高潮させる。同時に彼らは、日本に対しても疑いの目を向けずにはいられなかった。日英同盟を結んでいる関係上、あの極東の島国もまた、敵方につくのではあるまいか?

 


 吾々日本人が市中を歩いてゐるとやたらにドイツ人につかまり質問を受けた。それは日本はどうするのだといふ事だ。吾々は、留学生だから詳しい事は分らないが、日英同盟は東洋に限局するので欧州の戦争に日本は関係するまい。少なくとも局外中立を守るだろうと信じてゐると答へた、するとさうかなと、うなづいて別れる人もあるし、いやさうはゆくまい、と不承知顔をして行く者もあった。(9頁)

 

 

Gottlieb von Jagow circa 1915

 (Wikipediaより、ゴットリーブ・フォン・ヤゴー)

 


 対岸の火事と思っていた火が、気付けば足元の草を焼き、そろそろ靴を焦がしはじめた。


 8月1日からこっち、ベルリンに滞在していたロシア人が片っ端から捕らえられ、牢獄にぶち込まれる有り様を、鶴見は一度ならず目撃している。


 あれが自分の身の上にも起こるのでは? ――と、その恐怖がリアルなものとして顕れはじめた瞬間だった。

 


 七、八日の頃と思ふが、Was macht Japan?(日本はどうするのか)と新聞に見出しがありそろそろ日本人にお鉢が廻って来て、時には石をぶつけられた人もあり、又悪口をあびせかけられるようになった。が併し大使館に行っても日本からは公電は勿論何等の情報も入らないので、大使館でも困ってゐた。(10頁)

 


 大日本帝国が帝政ドイツに最後通牒を突き付けるのは、8月15日のこと。


 ただ、この方針を確定するのに国内でも相当紛糾があったのは確かで、それまでドイツの日本大使館はつんぼ桟敷に置かれたらしい。


 これほどの大事、軽々に決められないのはよくわかる。だが、大使館を頼みの綱と仰ぐ在独日本人にしてみれば、たまったものではないだろう。

 彼らこそ、まったくいい面の皮に相違なかった。

 

 

 

 

 


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迷信百科 ―インドの早婚―

 

 インド亜大陸支配下に置いた大英帝国の人々は、この地に蔓延るとある特異な風習を目の当たりにして、


「インドという国は、娘たちヤング・ガールの居ない国だ」


 頭を左右に振りながら、そのように慨嘆したという。


 特異な風習とは、すなわち早婚のことを指す。


 世界広しといえど、かつてのインドほど女性の平均結婚年齢が低い国というのは、あるいは絶無ではなかろうか。なにしろ1911年の調査記録を紐解けば、五歳以下の妻の数の合計が302425人と、思わず目を疑いたくなる結果が出ている。


 しかもその内、既に夫に先立たれ、所謂未亡人になっているのが17703人。この17703人はこれから一生、再婚するを許されず、顔を憶えているかどうかも怪しい夫のために操を立てて、その霊魂の安らかなるを祈り続けねばならないのである。

 


「彼女をして単に草根果実によって生活し、その身を衰えしめよ。而して他の男子の名を唱えしむるなかれ。夫の死後、誠心を以って辛酸を嘗め、苦行する有徳の妻は天に昇らんこと疑いなし。されども再婚して夫を恥かしむる者は、汚辱をその身に招き、夫の天上の座より除外せられん」

 


 ヒンドゥー教徒にとっての聖典『マヌ法典』に記されている一節である。
 苦行の無意味さを熱弁した仏祖釈迦牟尼のありがたさが、しみじみ感ぜられはすまいか。

 

 

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 支那儒教「男女七歳にして席を同じゅうせず」と説いたが、インドに於いてはそれどころの騒ぎではなく、七つにもなって未だ結婚相手が見つかっていない女子などは、一族一家の重大なる危機として、旦那探しに父母を狂奔させるに足るものだった。


 もし娘が未婚のまま成長し続け、初潮を迎えるような事態に至れば、その一家は社会に対して重罪を犯したと看做されて、ありとあらゆる侮辱に塗れなければならなくなるのだ。


 当然、親類縁者からも絶縁されて、新たに交遊する者もいなくなる。日本の村社会に於ける村八分に似ているが、インドの方がより悪質であったろう。


 なにせ、法律を盾にしている。

 
 ここでヤージュニャヴァルキヤ法典の名を出さねばなるまい。宗教的権威にかけてはマヌ法典と並び立つ、聖仙ヤージュニャヴァルキヤの著作として仮託された本書には、

 


「女子を嫁がしめずして月経を見る時は、その罪は保護者に在り」

 


 と、はっきりその旨定めてあるのだ。

 

 

Goddess Sarasvati appears before Yajnavalkya

 (Wikipediaより、サラスヴァティーとヤージュニャヴァルキヤ)

 


 裏を返せば、女児を設けた両親は、その子が初潮を迎えるまでに結婚させねば自動的に罪人になる、ということだろう。
 五歳以下の人妻が三十万人を超えたとしても無理はない。また、ヤージュニャヴァルキヤ法典からやや下って現れたパラサラという法制家は何を思ってかこの部分を更に強化し、

 


「女子月経の出づる時、猶ほ未婚者なる時はその父母兄弟地獄に堕ちん。バラモンにして斯くの如き女を娶らば、彼はスードラの女の夫となりたるも同じく、何人も彼と交際すべからず」

 


 徹底的に激語している。


 まったくインドの女性蔑視は、日本などの比ではない。


 ただ結婚しなかったというだけでこれほどの罪業を背負わされるなど、どう考えても割に合わぬではないか。


 生まれて早々、「後の禍根」と判断されて殺される――「間引き」に遭った女児の数も、統計すれば相当数に上るという。


 なお、パラサラの名はその後のインド社会に於いて聖賢として讃えられ、ながらく尊崇の的だった。

 

 

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主人格の消滅 ―フェリダ婦人の場合―

 

 解離性同一性障害――多重人格の症例にも色々あるが、19世紀に確認された、フェリダ婦人の身の上に起きた現象は、なかなか珍しいのではなかろうか。


 最初にそれが起きたのは、彼女がまだ14歳、少女の身空であったころ。フェリダ婦人は生来頭の回転の非常に速い性質で、恵まれた環境ゆえに水準以上の教育も受け、その天分を大いに伸ばすことが出来ていたが、しかし反面、物に感じやすすぎるという欠点もあった。


 有り体に言えば、ひどいヒステリー気質だったのである。


 何でもないようなことにもすぐ鬱屈して己の殻に閉じ篭る。その殻の内側から眺めてみると、この世には一切の希望がなく自分の将来にもただただ暗黒ばかりが待ち受けているように感ぜられ、ともすれば生きているのをやめたくなるのも屡々で、そんな負の妄想の堆積がいつしか慢性的な偏頭痛をも招来し、13歳を迎えるころには悩乱のあまり喀血したことさえあったという。


 重症といっていい。


 医者も牧師も両親も、彼女のこの憂鬱症を如何ともする能わず。


 転機は、彼女が特に得意とする裁縫中に訪れた。

 

 

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 その日、14歳とは思えぬほどに慣れた手つきで編み物をしていたフェリダ嬢は、しかし急な眠気に襲われて、それ以上作業を続けるのが不可能になった。


 やむなく安楽椅子に身体を委ね、襲い来る睡魔に全面降伏。たちどころに舟をこぎはじめた彼女だったが、その眠りはわずか数分で終了することとなる。

 


 もっとも、彼女の主観からすれば別であろうが。再び瞼を開けたとき、彼女の中身は既に入れ替わっていた。

 


 先ほどまでの憂鬱症で気難しい少女から、快活で細かいことを気にしない、積極的な人柄へ。しかし日々の稽古事や課題をこなす腕前は些かの遜色もなきゆえに、最初は家人の誰一人としてその正体に気が付かなかった。


 発覚は数日後に、またもやあの急な睡魔にフェリダが襲われたことによる。やはり数分間の昏睡を経た後、再び目覚めた彼女の心は、元のメランコリックな少女のそれに立ち返っていた。


 しかも彼女は、快活だった頃の「自分自身」の振る舞いを、何一つとして憶えてなかった。それゆえ目覚めて早々、ひどい混乱に襲われたとのことである。


 この不可思議なる現象は一度で終らず、その後幾度となく連続してゆくことになる。


 輪をかけて興味深いのは、生来の「フェリダ」は自分の人格が引っ込んでいる間の出来事を何一つとして知らないが、新たに生まれた陽気な「フェリダ」の方はというとまるでそんなことはなく、彼女の肉体が経験した出来事、その総ての完全なる記憶を保有していたことであろう。

 

 

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 ゆえに、こんな椿事も起きた。思春期に突入したフェリダはある時を境に特定の男子を自分の家に屡々連れ込むようになり、その内にただならぬ仲となって、とうとう懐妊に至るのであるが、そうした交渉の悉くは、総て第二人格――以後、新たに発生した陽気な「フェリダ」をこのように呼ぶ――の主導のもとに行われたことだった。


 第一人格のフェリダときたら妊娠どころか自分が処女を失ったことさえてんで無自覚な有り様であり、家人もどう説明すればいいものか、方途を見失ったのだろう、滑稽とも悲惨ともつかないこの状態を保持する以外に術がなかった。


 第一人格が己の現状――自分の胎内には、自分以外の生命が既に宿っている、という――を正しく理解したきっかけは、隣人の不用意な一言による。その結果彼女を襲ったヒステリーはかつてなく強烈な代物で、全身を激しく波打たせ、口からは白い泡が噴きこぼれたほどである。


 一歩間違えば、流産の危険性とてあったろう。

 


 記憶に関する優越性は、やがてそのまま肉体の主導権に反映された。

 

 

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 最初のうちフェリダの人格変換は、第一人格にある方が長くて第二人格の表出はごくごく短時間に限られていたが、段々と第二人格の時間が増え、27歳に至る頃には、これがほとんど拮抗するようになっていた。


 しかもおそるべきは、それで終らなかったことである。


 拮抗したと見えたも束の間、今度はどんどん第一人格表出の間が細まってゆき、むしろ第二人格に在るのが普通になっていったのだ。


 新たに生まれた人格が、元々の人格を呑み込んでしまう。消される方にしてみれば、それはいったい、どれほどの恐怖か。


 左様、消される。


 フェリダ婦人の第一人格は39歳を区切りとし、以後一度も出現することはなくなった。


 彼女はまったく第二人格のみの人となってしまって、前述の男性を夫に迎え、二人の子宝にも恵まれて、生涯朗らかに暮らしたという。

 

 

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 本人や家族にしてみれば、紛れもないハッピーエンドだったに違いない。
 だが、第三者目線からこれを眺めたときにこみ上げてくる、名状し難い後味の悪さはなんであろうか?


 島秀雄の伝説的なホラーゲーム、『P.T.』に於いてはその冒頭に、以下のようなメッセージが示される。

 


Watch out. The gap in the door... it's a separate reality. The only me is me. Are you sure the only you is you?

 


「気を付けろ そのドアの隙間は 分断された現実 (セパレート・リアリティ) だ」「俺なのは俺だけだ お前なのはお前だけか?」


 フェリダ婦人について考えた場合、どういうわけか私はいつも、このフレーズのリフレインが止まらなくなる。

 

 

 

 

 


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