中華民国が台湾へ追い落とされる以前の話、未だ彼らが大陸中央に座していたころ――。
彼の地の人口に膾炙された四字熟語に、「匪梳兵箆」なるものがあった。
匪――すなわち馬賊や土匪の掠奪は、あたかも荒櫛で梳き取るように行われ、そのぶん取りこぼしも多いものの、兵隊となるとそうはいかない。彼らは
よって中華の人民が恐れたのは馬賊による襲撃よりも、それを討伐しに来る官軍兵をこそだった。
(Wikipediaより、へら)
当時の中国に於ける兵士・警官の精神気質は、同年代の如何なる国家と比べても全然別種の観がある。
端的に言えば、彼らは
雇用するのが国家か民間か――違いといえば本当にその程度のものでしかない。
制度も実に粗雑なもので、「官衙募集」の広告を見て応募してきた連中を、ろくな審査もせぬままに十把一絡げ方式で採用するまでのことである。
住所不定前歴不明の怪しさが服を着て歩いているような輩でも、なんの問題もなく嘘のような容易さで兵士や警官になれるのだ。これほど恐ろしい話はない。
採用後、彼らは少しばかり形式的な訓練を受け、それが済むともう銃を担い剣を帯びて兵務に就かされることになる。
むろん、案山子以上のどんな役にも立ちはしない。識字率も地を這うような有り様で、国家の防壁、治安の守り手という意識など、塵ほども持ち合わせてはいないのだ。
「好鉄不打釘、好人不当兵」の伝統が極まった姿であったろう。
だから「雇用主」たる官憲側でもこの連中に信頼など欠片も寄せず、期待するのはせいぜい装飾物程度の役割のみに過ぎなかった。
官庁の財政が悪化して月給が不渡りになるとか、困難な仕事を命ぜられたりとか、あるいは業務上重大な過失を犯して罰を受けるのが確定するとか、そういう自己の不利益の気配を嗅ぎつけるや即座に逃げ出す苦力連に、命懸けの戦争など期待するだけ無駄であろう。
(Wikipediaより、1900年頃の苦力)
ゆえに匪賊の跳梁が通報されて討伐隊が編成されても、その歩みときたら牛のそれよりなお遅い。僅かばかりの月給で抱えられ、命が惜しい手合いばかりの集団だから、こうしてノロノロ行軍している間に匪賊がその欲望を満たし切り、自分達が着くころにはとうに撤退済みであれかし――そう念願しての行動である。こういう
さて、如何に遅くとも兵士たちは「行軍」しているのである。当然、その日その日で寝泊まりする施設が必要になる。
運悪くその「宿泊先」に指定されてしまった市街村落ほど悲惨なものは他にない。
「軍規」などという言葉自体知らないような彼らのことだ、無銭飲食は当然のこと、白昼路上で婦女を犯し、民家から金品を強奪し、殺人さえも平気でこなす。
「匪梳兵箆」と、匪賊より兵隊の方こそ忌まれ嫌われ恐れられた理由がわかるだろう。
前者による掠奪は無法者ゆえ退き際を意識するところが濃厚であり、目当ての富豪のみを襲ってあっという間に影も形も見えなくなる――さながら一過性の嵐の如き場合もあったが、公権力の威光に包まれている後者に於いてそれはない。彼らはめぼしいものを奪り尽くすまで悠然と居座り、まさしく箆で掻き取るように一切合財を攫ってゆく。
そして若し、運悪く目的地まで到達しても未だ匪賊が撤退しきっていなかった場合、兵士たちはこれに対して遠巻きに銃撃を加えるのみで、間合いに踏み込もうなどとは夢にも思わぬ。これは後の十五年戦争を通してもよく見られた行動で、折角夜襲を仕掛けていながら有効射程距離の遥か外側でいたずらに銃をぶっ放す中国兵の行動に、多くの日本兵が理解不能と首を傾げたものだった。
笑止千万な支那軍の夜襲。
日本陣地の前まで来て喇叭を吹き、悲鳴を挙げ自ら射撃して戦場を騒す。せいぜい陣地前五十メートルより近づくことはない。だから安心して撃退が出来る理だ。倒れて居る奴も銃に着剣して居ないのが大部分とは一寸解せないではないか。
聞けば支那軍の夜襲は日本軍をやっつける為めでは無く恩賞金を徴達する手段とは益々笑止な話だ。即ち弾丸を射ち音声を発して今夜夜襲して居るぞといふ事を後方の者に知らしめ後で夜襲料を頂戴する由――滑稽々々。(昭和十年『江南の戦』237頁)
彼らを雇う官憲としても目的とするのは匪賊どもの
やがて21世紀に時代は移り、大陸の支配権も共産党に強奪されて、斯様な悪習もなりをひそめたかのように思われた。
ところが先日、香港デモ隊に参加していた16歳の少女が警察署に監禁されて、警察官から集団性的暴行を受けた挙句、妊娠の事実が明らかになりクイーンエリザベス病院で中絶手術を受けたという耳を疑いたくなるニュースが。
病院側の発表によれば妊娠は事実で、妊娠期間は拘束されていた期間と一致するとのこと。
衝撃的という言葉さえも陳腐化する言語道断なこの現実は、中国社会が未だに「匪梳兵箆」の悪風から脱け出しおおせていないことを示している。
部落に入って見ると全部掠奪を受け実に惨憺たる様を残してゐる、其処には女の死体さへ横はってゐるではないか。此の世に鬼畜に類するものありとすれば実に支那兵である彼等こそ此世の悪魔だ、悪魔以外の何ものでもあり得ない。
家屋内を隈なく捜索すると逃げ遅れた奴が命欲しさに藁の中にもぐり込んでゐる、引張り出してみると全くの丸腰だのに懐中には掠奪したばかりの金を一杯詰め込んでゐる。地獄の沙汰も金次第位に思ってゐるのだらう。こういふ者には地獄の沙汰も金次第であるかどうかを体験させてやるのも必要だ。(同上、219頁)
彼らの本質は八十年前のこの時から、否、きっと数千年の昔から、少しも変化していない。
千年後も、きっと今のままだろう。
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