浦島よ與謝の海辺を見に帰り
空しからざる箱開き来よ
哀れ知る
志有る我背子の為め
新しき人の中より選ばれて
君いや先きに叫ぶ日の来よ
以上三首は大正四年、衆議院選挙に打って出た與謝野鉄幹尻押しのため、その妻晶子が詠みし詩。
内助の功といっていい。
いったいこの前後というのは日本国民の政治熱が限度を超えて高まりきった時期であり、その雰囲気に誘導もしくは衝き動かされるようにして、與謝野鉄幹以外にも、馬場孤蝶なり小山東助なり小竹竹坡なり、なり――と、所謂「筆の人」「文の人」らが相次いで出馬を表明し、いよいよ世間を盛り上がらせた頃だった。
矢島楫子が「凡ての社会運動同様、政治も家庭から起らねばなりません。私としては男女とも小学生から政治思想を吹き込んで置きたいのです」と高邁な理想を表明したタイミングとも、確か一致していたはずだ。
(Wikipediaより、矢島楫子)
尾崎行雄や大隈重信の政治演説を録音したレコードが、飛ぶように売れたとの報告もある。
「破天荒の吹込レコード、司法大臣尾崎行雄君演説 本日より売出し」とかいった広告ビラを吊り下げて、宣伝を凝らしたらしかった。
大正デモクラシーの導火線に相応しい賑わいぶりであったろう。
なお、この時の――第12回衆議院議員総選挙に與謝野鉄幹は敗北、落選、夢破れ、政治家たるを得なかった。
しかしながらこの敗北は、彼の人生全体を、むしろ利したやも知れぬ。
(Wikipediaより、晶子と鉄幹)
「我々の政治に対する意見などは、彼の文士諸君の『生の躍進』と同様実際問題には余程縁の遠い放言に過ぎぬのではあるまいか。私は寧ろ自由な境地に処して勝手な熱を吹いて居る方が、結句得策だと思ふ」。内田魯庵が諷した通り、「野の人」で在り続けた方が、より深甚なる影響力を行使可能な人種というのは、確実に存在する故に――。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓