古賀残星の性癖に「女教師好き」がある。
幼少時代の実体験から育まれたモノらしい。
「私達の小学校の頃は紫紺の袴をはいた女教師を見て来たのであるが、その時代は非常にロマンチックな色彩があり、教育にも人間味があった。殊に女学校出身の女教師には美人も多かったし、その教授法は職業的訓練を受けた師範出には及ばないまでも児童と教師との間は、姉と妹のやうに情愛が深かった。入学試験などの競争も今程にはなかったし、世間そのものがもっと伸び伸びとしてゐた為でもあらうが、私達はかゝる美しい女教師に接する事が子供ながらも嬉しかったのである」
昭和十年の告白だった。

(上白沢慧音。個人的に女教師といえばこの人)
古賀残星が佐賀の天地に呱々の声をあげたのは明治三十六年という。
そこから指折り数えると、ちょうど残星が尋常小を
なるほど絢爛、なるほど浪漫。嘘偽りなく、日本文化の華やかなりし頃だった。

(神田明神、七五三参りの家族の景)
文士などといういきものは、まずまあ多かれ少なかれ、変態的な心理の
「教師の仕事は、日向に干された布団を叩くのと同じやうに、仕事の塵埃はいくらでもある。しかもこれは、無趣味で、単調だ。若しも小学校の職員室に若い女教師がゐなかったら、これより殺風景な所はないであらう」
こう言えるのは残星自身、その人生の一時期を体育教師の職掌に捧げた男だからであろう。
おのずから説得力を持つ。文士にして柔道家なだけはある。変に重心の浮ついた、空理空論を振りかざすような真似はせぬ。一見奇矯に見えようと、その文章にはいちいち確かな裏打ちが、実生活を通して得た真がある。とどのつまりは、血が通っているわけだ。

「大阪の風水害には、教へ子をかばって、死んだ女教師があり、貧しい教へ子に薄給をさいて、女学校を卒業させ、尚女子師範の二部へ入学させた美談の主もある。彼女等の行動は母性愛を発揮するところに益々その美しさがあるのだ」
蓋し名文ではないか。
文武両道の清々しさを、古賀残星という漢にはどうも感じさせられる。
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