与謝野晶子は共学推進論者であった。
日本列島全土に於いて、男女席を同じゅうして学ぶ環境を創り出す。七つの峠を越えようが、敢えて隔てる必要はない。どんどん机をくっつけてゆけ。そういうことを念願とした人だった。
「さあ、それは」
いくらなんでも度が過ぎる、無意味なまでに極端に突っ走った話じゃないか――。
ある場面にて難詰されて、晶子、負けじと返した言葉が強い。
「逆ですよ。男は女に、女は男に、早いうちから慣れさせないと、後々突飛な真似をする。そうなってからでは遅いのです」
突飛な真似とは要するに、情死、駈け落ち、多淫に漁色、数次に亙って結婚離婚を繰り返す病的心理状態等々、そういう聞くだに忌まわしい不祥事件を指している。
文明が進むに従って、社会の猥雑な側面も一層暗さを増す
以下、本人の筆跡をそのまま
「…教育ある男女が直接に軽率な同棲を遂げて、あとで不幸な離婚沙汰を引起こしたりするのは、男も女も互に異性の観察に慣れて居ない為めに、偶然の機会で接近出来ると、物珍しさが先きに立って、相手を真剣に研究する落附を失ひ、唯逆上し昂奮して見境も無く直に相許してしまふことに由来して居ます。
恋愛も此後は実験主義的の研究と個人主義的の自重とが必要であって、感傷的に牽き合ひ、迷信的に妥協するのでは其甘美な夢が瞬く間に覚めて、現実の苦味に面した時、性格の根本的に一致しない男女の共同生活は破綻するのが当然です。
さういふことのないやうに、異性の観察に慣れさせる方法としては男女の共学に勝るものは無ひと思ひます」
ちかごろ世上に
(『ドラゴンクエストⅪ』より)
とてもいいことを言っている。話の筋も明晰で、文句をつける術がない。
フェミニストと呼ばれる種族の皆が皆、これほどまでに冷静で理性的な脳髄を格納してくれていたなら、世間はどれほど棲みよいか。
感情一途にわめき散らされる弊は去り、話の通じる領域が、ぐんと拡張されるであろう。
「所謂自由恋愛も、男女の結合を相互の愛情に於てのみ許したといふことは、只それだけの点に於て見れば、確に千古の真理を含んで居ります。併し恋愛の有るところ、必ず自由の随ふものと考へた事は、言い換へれば自由に制限を置くことを忘れた事は、確に誤謬であって、この点に於て多くの混乱や破壊が含まれてゐます」――「自由は不自由の間に在り」。万古不易の大原則を弁えていた平塚らいてう女史といい、当時の女権運動家には敬意を払うに値する、理智の光が確かにあった。
汲んでも汲んでもなお尽きぬ。古人に学ぶべきことは、まだまだ多いようである。
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