日光東照宮こそは、家光の狂信の結晶である。
(日光東照宮 陽明門)
先述の通り、家康をして日本歴史開闢以来、最大・最強・最高の英雄なりと百パーセント心の底から信奉していた家光は、神にも等しい、そういう祖父の、御霊を祀るための廟所は、これまた当然、日本史上最高の
(そうだ、そうとも、権現様は、太閤などよりよほど格上なのだから――)
従って東照宮の建築は、かつて秀吉が生み出した聚楽・伏見を凌駕する、いやいや遥かに引き離す、空前絶後の究極構造体として昇華されなければならぬ。それでこそ徳川と豊臣の、歴史に対する格付けにもなる。こういうことを、彼は本気で考えた。
もはや、使命感の領域だった。
(viprpg『青いやつと赤いやつ』より)
大坂の陣も昔語りとなりつつあったこの時期に、未だ豊家へ対抗意識をメラメラ燃やし続けるという、この一事だけを見てみても、徳川三代将軍は奇人であったに違いない。
そして彼は、これをみごとに現実化した。
伊東忠太に「江戸期最大の変態建築」と称された日光東照宮の完成である。
むろん、褒め言葉であった。
「古来奇矯を以て称せらるゝ顕著なる建築は、何れもその動機は真剣である。仮令その主義その心事に多少の無理があり、多少の欠点があっても、真剣で熱誠で徹底したものならば、そこに必ず人に深い感動を与ふるものがあり、そこに芸術的価値が認めらるる。予は今後日本に、否世界に、奇矯なる建築の続出せんことを希望して止まぬ。但し奇矯は必ず真剣なる心理から出たもので、よき意味に於ける超凡を意味することを条件としてである。成敗利鈍の如きは、素より問ふところではない」
この「真剣ゆえの奇矯さ」の最上級にカウントされる存在として、伊東忠太は東照宮を持ってきているわけである。
(日光東照宮 拝殿)
納得のいくことだった。
なんとなれば、築地本願寺の設計に代表されている通り、伊東忠太その人からして「世間並みの定型」とやらにおよそ嵌ることのない、奇抜というか奔放というか、融通無碍なデザインセンスで名の通ったる人物である。
それだけに少なからず家光へ、祖父のためなら暴虎馮河も厭わない、この生真面目な狂信者へと、好意の加算があったのではなかろうか。
「信仰が暴挙を生み、暴挙のみが奇跡を生む」。
ジャック・ハンマーの理屈とも、これは何処かで響き合う。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓