穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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六花と福翁


 雪池という号がある。


 福澤諭吉が用いたものだ。


「ユキイケ」でも「セッチ」でもない、この二文字で「ユキチ」と読ませる。


 号と名前の発音を一致させたわけである。ちょっと他に類を見ぬ趣向といっていいだろう。如何にも彼の破天荒な性格を表徴したるものだった。

 

 

 


 単に気まぐれで付けたのではない。福澤諭吉は、雪自体への造詣も、なかなかどうして水準以上に深かった。「造化の経済に於て雪の功用甚だ少なからず」と、この男にしてみれば稀有なほどの好意を以って、『時事新報』に書いている。

 


千山萬嶽に降り積りて、其解ること急劇ならず、地面を湿すこと徐々なるが故に、急雨の滂沱たるものが万物を荒らすの比に非ず。極熱の地方に於ては雪山より吹き卸す風を以て防暑の用を為す可し。寒国に於ては雪は恰も動植物の蒲団にして、穀類野菜草木の苗をして其生を積雪の下に保存せしめ、牧獣野獣百禽をして積雪の蔭に身を潜むるを得せしむ可し。三冬枯寒にして雪なくんば、仮令ひ中和帯の地方に於ても、禽獣草木は殆ど孑遺けついなきに至らんのみ

 


 中和帯とは、中緯度にある気候帯のことを指し、当時に於ける温帯の謂いと解釈して構うまい。


 六花舞わねば、幽趣佳境と宇内に響く日本の自然風景も、到底保つを得なくなり、ただただみじめに朽ち果てる。


「孑遺なきに至らんのみ」とは、そういう意味であったろう。非常に大きな価値・効能を、福澤諭吉は降雪という、一連の天象に見いだしている。時あたかも明治十六年二月六日、例年にない大雪が帝都を埋めたことを機に、作製された記事だった。

 

 

忍野八海にて撮影。霊峰富士の雪解け水が湧くところ)

 


 福澤諭吉の永眠は、これよりおよそ十八年後、明治三十四年二月三日にやってくる。


 死因は、脳出血である。


 その日はやがて「雪池忌」と称されるに至っては、慶應義塾の関係者により都度法要が営まれ、今も香華が絶えないという。

 

 

 

 

 


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