大東亜戦争の真っ只中に陸軍将校が書いた本を読んでいる。
昭和十七年、大場弥平著『われ等の新兵器』が、すなわち
表紙を捲ってものの十秒、早くも序文の段階で、
「竹槍」
の二文字が目に入り、わけもなく苦笑させられた。
(Wikipediaより、竹槍訓練)
この農民兵器の名称は、本文中にも折々顔をのぞかせる。曰く「戦略いかに奇想天外でも、兵器にして竹槍同然ならば、相手の新兵器が発揮する電撃的殲滅力の前に、たちまち打ちのめされてしまふ」、曰く「もう世の中は、兵器の威力戦時代となった。兵器の精鋭度を考ふることなしに戦勝は考へられなくなった。一国のもってゐる科学の争覇戦時代となったのだ。(中略)われわれは元亀、天正の竹槍時代を考へてはならない。一にも兵器、二にも兵器、三にも兵器へとつき進まねばならない」、こんな調子で、およそ無価値と切り捨てる、否定的なニュアンスのもと、だ。
陸軍の汚点、いわゆる「竹槍三百万本論」、神がかりの頂点、悪しき精神主義の極北。荒木貞夫がどういう
頁を重ねるに従って、その印象が徐々に浮き彫りになってくる。
「前欧州大戦を一転機として、戦争の姿は全くかはった。最初全軍の兵器を準備したからそれで大丈夫だ、何年戦争がつづいても戦争をなしとげられるといふ元亀、天正時代ではないのだ。無尽蔵の補給力がなければ、最終の勝利は望み得ない世の中となったのである」
真っ当な観測ではないか。
ブラックホールさながらに、ヒト・モノ・カネを際限なしに呑み込んでゆく、「近代戦」という名の怪物。その正体を、よく闡明してくれている。
「日露戦争の旅順攻撃に日本の勇敢な将士が、枕を並べて討死したのも、ロシア軍に機関銃といふ精鋭な兵器があったからだ。もし日露戦争当時、日本軍にロシア軍より精鋭な大砲と、機関銃といふ新兵器があったなら、あの雲霞のごときロシア軍を南満洲の曠野で、みな殺しにすることができたかも知れない」
物量の狂気、大量殺戮の完成、真綿で首を絞め合うような血反吐まみれの消耗戦、「いちばん大きな工場をもった側が勝つ」、――「パリは燃えているか」が頭の奥で自動再生されそうだ。『映像の世紀』で目にし聴いたフレーズが、否が応でもよみがえる。
(ドイツ重機関銃陣地)
夏に読むには、確かに相応しい一冊だろう。
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