金井平兵衛は広島の牡蠣商人である。
明治三十五年、神戸在住のアメリカ人から発注を受け、合衆国に広島牡蠣を輸出した。
すると翌年、またもや同じ業者から、牡蠣を頼むと注文が。
(お気に召したか)
ウチの牡蠣の品質は独り内国のみならず、舞台を「世界」に
充足感を噛み締めながら、せっせと作業に取り掛かる。
この両年で平兵衛が合衆国に輸出した広島牡蠣は、およそ二千五百俵。
(広島名物、牡蠣船の景)
船便により太平洋を横切って、目指すは北米大陸西海岸の最北部、ワシントン州はべリンハム。カナダまでほんの三十キロを控えるばかりの港町に設えられた養殖場が、この大量の二枚貝どもの取り敢えずのゴールであった。
日本からアメリカへ、種牡蠣輸出の長い長い伝統は、金井平兵衛のこの挙を以って発端とする。
そもそも論を展開すれば、西海岸にも土着の牡蠣は居ることは居た。
オリンピアという。早い話が在来種である。白人入植以前から、ネイティブアメリカンたちに愛好されて来たという。
しかしサイズが小ぶりであった。
おまけに棲息地もごく限られた範囲であって、膨れ上がったオイスター需要をとてものこと賄いきれない。
そこで従来は反対側の国土から――東海岸の諸州より牡蠣を集めて列車で輸送していたのだが、なにぶん大陸を横断せねばならぬため、かかる費用も馬鹿にならない。かてて加えて、せっかく取り寄せておきながら、移殖後の成績は不良であった。
東部に比べて水温の低い所為なのか、それとも輸送に手落ちがあって生理的に痛むのか、あるいはその両方か、いやいやどっちも間違いで、まったく未知の要素が何処かしらに潜在し、悪さをしてやがるのか。
ともあれ現状はソロバンに合わぬも甚だしいと言うべきである。
そこで西海岸の業者らは、活路をむしろ日本に仰ぐことにした。
金井平兵衛に注文が飛ぶ三年前、明治三十二年――西暦にして一八九九年の段階で、ワシントン州漁業組合長官と東京帝国大学教授・箕作佳吉博士の間に文書を介した接触が繰り返し記録されている。内容はむろん、牡蠣に関して。ずいぶん意見を交わしたようだ。
(Wikipediaより、べリンハム)
畢竟するに平兵衛への注文も、場当たり的な思いつきの産物でなく、綿密な事前調査に基いた、成算ありきの試みだったというわけで。
果たして期待は成就した。広島牡蠣――パシフィック・オイスターはワシントン州に素敵に根付き、現代でもなお一般的な種として愛好されているという。
開国以来、アメリカから日本に流れ込んだ品々は、有形無形問わずして、ほとんど計上不能なまでに数多だが。か細いながら逆の流れも、確かに存在していたのである。
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