穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ドイツとエビオス ―代用食を振り返る―


 人類最初の世界大戦、酣なる時分のはなし。


 英国下層の労働者らが雑穀入りの黒パンに、まずいまずいと不平不満をこぼしている一方で。


 帝政ドイツは鮮血を代用パンの生地に練り込み、まずいどころの騒ぎではない、ある種ゲテモノを開発し、心ならずも人のみかくの限界を試すような真似をしていた。


 前回に引き続き、右田正男の伝えるところだ。

 

 

ドイツ国会議事堂)

 


 山科礼蔵と同じく、食糧の価値を「戦略物資」と位置付けていた彼である。

 

 その観点の形成に、第一次世界大戦当時のドイツ銃後の惨状が寄与したことは疑いがない。実際右田が世に著した『水産と化学』を開いてみると、

 


…前欧州大戦に於てドイツの敗れたのは、食糧の窮乏につけこまれた謀略のためであったことはあまりにも有名な話である。一九一五年から一九一七年に亙るドイツの食糧事情は実に暗澹たるものであった。

 


 こういう一文が発見できる。


 更に続いて右田正男は「暗澹たる」食糧事情を詳らかにするために、冷厳な数字の引用に及ぶ。


 彼の調べたところによると「一般国民の食物の量は戦前の三割、合理的必要量の半分」にまで低下しており、就中、最も不足の激甚だった肉類なぞは「戦前の一割から一割五分にまで減」ずるというみすぼらしさを呈しきっていたそうな。


 想像するだにぞっとする。なんたるわびしき食卓だろう。そりゃあ赤子の指の先から爪が消えるわけである。木の根を齧り野草を摘めば、最悪、まあ、辛うじて、デンプン質は補えなくもないのだが、タンパク質はどうにもならない。身体の維持が不可能になる。どうにもならない命題を、それでもどうにかするために、彼らは血液まで混ぜたのだ。

 

 

 


 窮余の一策といっていい。


 しかしあくまで時間稼ぎだ。抜本的な局面打破にはどうしても、より安価でより美味く、しかも大量生産に適当な代用タンパク食の開発こそが急務とされた。


 言うまでもなく、夢物語だ。そんなご都合主義的な物資のアテがあるのなら、誰も最初から苦労はしない。地上はとっくに飢餓問題と縁を切り、ユートピア前奏曲が厳かに響き渡っていただろう。


 しかし流石、ドイツの科学は優秀である。叡智の限りを尽くした結果、ややそれに近い品を得た。すなわち、「ビール醸造の際の廃物である酵母が肥満牛肉の三倍以上も栄養価のあることを発見した」のだ。


 この説明文を一瞥するなり、私の思慮を雷霆の如く駆け巡ったものがある。


 つまりは、


 ――エビオスじゃねえか!


 との驚きである。

 

 

 


 現代日本人ならば、ほとんど誰もが知るだろう。きっと一度は目にした覚えがあるはずだ。アサヒグループ食品会社、珠玉の名作。ついこのあいだ、令和二年に発売九十周年を経た、くすんだ色の、あの錠剤を――。


『水産と化学』は昭和十九年の刊。エビオスは既に発売済みだが、右田が触れた形跡はない。いささか残念に思いつつ、内容を更に追ってみる。


 ドイツ科学者の手によって、味の改良は割合容易に進んだらしい。問題はむしろ、大量生産の方だった。戦時下で大麦は貴重である。その貴重品の大麦を、さまで必須ともいえぬビールのために無制限には割り振れぬ。どうにかして醸造に依らず、酵母のみを盛大に蕃殖させるはないか。


 あった。


 見つけた。


 ゲルマン魂は不撓不屈であるらしい。常軌を逸した粘り強い探求の果て、遂に答えにたどり着く。


 まさに喝采に値する、感動的なその情景を、右田正男は以下の如く描写した。

 


…種々研究の結果、今まで肥料とされてゐたグアノ(海鳥の糞の固まって出来たものでアンモニアと燐酸分に富んでゐる。南洋には全島これを以て埋れてゐるところもある)を栄養分として酵母を人工的に培養し、以後これを貴重な蛋白食品とするやうになった。

 

 

Guano

Wikipediaより、グアノ。別名「糞化石」とも)

 


 思わず涙を禁じ得ぬ。


 ここまでしても人間は闘い続けられるのか。勝利を志向できるのか。


 ドイツ人とはまったく以って尋常ならざる民族だ。


 なお、アサヒグループ食品のホームページを窺う限り、エビオス錠の製造過程にグアノの影はほんの少しも見当たらぬこと、一応附言しておこう。

 

 

 

 

 


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