その少年は四歳で光を失った。
両眼失明という過酷な現実。あまりにも巨大な運命の重石が、小さなその背にいきなり振り落ちて来たわけである。
もしも私が、同じ境遇に置かれたならばどうだろう。果たして耐えることができただろうか。いや、考えるまでもない。とてものこと不可能だ。
我が読書熱はこのころ既に旺盛で、暇さえあれば『日本昔話』とか、『ドラえもん』の単行本を紐解いていたがためである。甚だしきは飯時もこれを手放さず、ために米粒ぽろぽろと、次から次へと
その楽しみの一切が、ある日突然奪われる。
無理だ。
立ち直れない。
悲嘆と絶望に取り憑かれたまま、暗澹たる日々を送ることになるだろう。
ところが彼――今井新太郎は挫けなかった。
ショックはショックであったろうが、すぐに己を取り戻し、その暗闇の底でなお、
――斯くなる上は、当代の塙保己一になってやる。
と、万丈の気を吐くだけの負けじ魂を持っていた。
前向き、といっていいのか。とにもかくにもこの姿勢にはむしろ周囲が面食らい、
――今はそんな時代じゃあない。
本来ならば新太郎を励ますべき彼らの方が、たしなめる側に廻る始末。
「それよりも諸芸を身につけよ」
そう説諭したのは祖母だった。
なるほど確かに日本国には古来より、琵琶法師だのなんだのと、盲目の楽器演奏者の伝統がある。
(Wikipediaより、琵琶法師)
ここに新太郎は弟子入りをした。
ところがめぐり合わせというのは奇妙なものだ。この清春の夫が漢学者だった。お蔭で新太郎は稽古の合間、わずかな時間を捻出しては彼の講義を聴きたがり、齢十五を迎えるころには何処へ出しても恥ずかしくない一流の教養を身に着けていた。
が、箏曲の方は「一流」どころの騒ぎではない。
どう控えめに表現しても、百万に一人の天才だった。
「もはや教えられることがない」
私の持っている何もかも、すべてお前に与えてしまった――師匠清春が音を上げたのは、やはり新太郎十五歳の折。
「この上はもう、東京しかない」
帝都で広くお前を試せ――恩師のすすめに、新太郎は従った。
彼女の手引きで、当時山田流随一の名人とも称された山勢松韻の門下に入り、腕にますます磨きをかける。二年後にはもう、號を授かる運びとなった。
その號こそは、すなわち「慶松」。卑しからぬ人品と、神がかり的な演奏技術で日本の上下を魅了した、国民的箏曲家はこのようにして
まさに竜が雲をつかんで天へと駈け上がるが如し。「盲目の天才」と讃えられるのも納得である。
ところが慶松本人は、この呼ばれ方が頗る気に喰わなかったらしく。
「天才は撓まざる努力の結果で生れ乍らの天才はあり得ない。磨かずして世に出るのは天才でなくして、単なる器用に過ぎない」
それが彼の信念であり、周囲にもよく説いて聞かせたところであった。
(今井慶松)
やはり天才は天才と呼ばれるのを嫌うのか。
それとも昔日の漢学修業が、謙遜の重要性を彼の頭脳に刻み込んだか。
どちらでもいい。
どちらだろうと、慶松今井新太郎がみごとな男であることに、いささかの変わりもありはしない。
慶松はまた、御前演奏も度々やった。
明治・大正・昭和を生きた慶松は、三代すべての至尊に対し弦を弾いて音色を捧げる栄誉に浴した。
その回数は、都合三十になんなんとせんばかりであったということだ。
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