穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

毒の不思議な魅力について ―ストリキニーネ、及びクラーレ―

 

 世にも不幸なその事故は、1896年イギリスに於いて発生した。

 今でいう製薬会社に勤務する一社員が、薬瓶のラベルを貼り間違えてしまったのである。
 それも風邪・頭痛薬として広く用いられていたフェナセチンと、劇薬たるストリキニーネのラベルを、だ。
 このヒューマンエラーに誰一人気付くことはなく、問題の商品はドラッグストアへ卸されて、結果二名の死者が出た。


 惨というほかない。


 仮に自殺を強いられる破目になったとしても、私はこのストリキニーネの中毒死だけは避けたいものだ。

 

 

Strychnos nux-vomica in Kinnarsani WS, AP W IMG 6016

Wikipediaより、まちんの果実) 

 


 主にインド東部に分布する、まちん・・・という植物の種子から精製されるこの劇薬は、中毒すると非常に特徴的な痙攣反応を示す。後弓反張と呼ばれるこの症状は、読んで字の如く、全身を弓なりに曲げるのだ。


 それも尋常一様なつっぱりではない。恰も後頭部と踵との二点のみで全体重を支えるような姿勢を呈し、しきりに手を震わせて、口からは蟹の如く泡を噴き、時折恐怖に満ちた悲鳴を上げる。


 知識のないものが見れば、悪魔にでもとり憑かれたかと思うだろう。

 実際、映画エクソシストにこんなシーンがあった。


 おまけに何より最悪なのは、ストリキニーネには人を昏睡へと誘う効果がないことだ。このためこの世のものとも思われぬ苦痛を、明瞭な意識のまま延々味わわされる破目になる。


 一旦小康状態を取り戻したとしても油断は出来ない。患者の体どころかシーツにちょっぴり触っただけでも、或いは足音を立てて部屋を歩いただけであっても、その震動は極めて鋭敏に患者に響き、またぞろ例の痙攣反応が再発するのだ。


 そのうち筋肉が融けだして、流出した成分が尿に混ざるようになる。


 いっそ殺してくれと願ったとしても、何もおかしくないだろう。まあ、顎の筋肉も痙攣している所為で、意味のある言葉を発するのはとても難しいわけなのだが。

 

 


 それにしても、マルキ・ド・サド悪徳の栄えで繰り返し描写したように、毒というのは不思議と人の興味をそそる、変な魅力のあるものだ。

 

 

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 折角なので、もう一つばかり独特な毒について書かせてもらおう。


 クラーレという毒である。


 吉村九一が狩りの獲物を求めて南洋の島々を渡り歩いているうちに、遭遇した原住民から教わった毒だ。


 彼らはこれを矢の尖端に塗り、狩りに役立てていたという。以下、製法の抜粋。

 


 矢の先端に塗る毒薬はクラーレといふ。このボルネオ島では、高地の谷間に産する、ゴムの木のやうな、カユイツポといふ大木からとる。ちやうど、ゴム液をとるやうに、朝早く木の皮にななめに切れめを入れておくと、白くにごった液がしみ出して来る。しばらくすると褐色に変り、ねばりけのある汁になるが、それを煮つめると、毒薬の結晶がとれるのである。(中略)このカユイツポといはれる木は、赤道直下の、南米アマゾン川の流域でも生えてゐる。後年アマゾン流域へ行ってみたが、毒薬の製法は全く同じであった。(『南洋狩猟の旅』118頁)

 


 この毒の素晴らしいのは、経口摂取しても中毒にならない、すなわち血管に打ち込まれない限り人体に何ら悪影響を及ぼさない点だろう。


 通常、毒矢で以って仕留めた獲物は、傷口の部分をえぐり取らねば食用にはならないが、クラーレならばそんな手間は必要ない。そのまま余すところなく喰える。無駄が出ないのはいいことだ。

 

 

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 吉村九一の時代から七十余年、現在のボルネオ島では吹矢による狩猟など伝統芸能以外のなにものでもなく、クラーレの原料たるカユイツポの樹も、伐採により激減しつつあるそうな。


 栄枯盛衰、世の転変には抗い難し。ただ、そういうものが嘗てあったということは、記憶しておくべきだろう。

 

 

 

 

 


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