最初私はそのニュースを真に受けず、
――イギリス人め、またぞろ
彼ら一流の当てこすりと判断した。
そりゃあそうだろう、「ピラミッドは奴隷労働の産物だから破壊すべき」だなんて暴論、いったい誰が真面目に聞くのか。苟も文明圏に棲息するなら、モノの価値を理解できる
だからこれは、元植民地の狂い騒ぎを嘲笑する意味合いで、殊更に過激を装った皮肉であろう――。
それ以外の背景を、私はまったく想像だにしてなかったのである。
するとどうであろう、思いもかけず彼らは本気であるようだ。
本気でこの戯言を社会正義と信奉し、ネルソンやチャーチルの像をさえ「人種差別者」の名の下に引き倒そうとしているらしい。
開いた口が塞がらないとはこのことだ。泰西人がよりにもよって中国共産党やイスラム原理主義者に範を取り、偶像破壊に走るとは、私はいつ「発狂した宇宙」に迷い込んだかと天に向って問い詰めたくなる。
が、この発狂ぶり。
覚えがある。我が日本国にも、かつてこんな時代があった。
ご存知マルクス教の狂信者どもが大量発生した一期間中、あたまに血の上りきった思慮足らずな学生どもが、好んでこの種の愚論を弄んだものだった。奴隷労働が前提としてある以上、パルテノン神殿の大伽藍とても実際には不可視の穢れが抜き難く滲み付いているものであり、「文化的前進」のためにはあんなもの、汚辱としてぶち壊して然るべきだと。
その瓦礫を靴裏にて蹂躙してこそ「進歩」だと、大真面目に看做していたのだ。
思えば彼らも警察をして「権力の狗」と敵視して、火炎瓶を投げつけたりパイプ爆弾を放り込んだり、はたまた小包爆弾を送り付けたりすることで、理想社会が近付いたと大いに悦に入っていた。
他人の土地を勝手に占拠し、グロテスクな砦をおっ建て、いっぱしの「闘士」を気取るなど、今回の騒ぎと酷似する点、探せば随所に見受けられよう。
白樺派作家の長與善郎はこの種の輩を「道徳的近眼者」とバッサリ切り捨て、更にまた、
…彼はギリシャの文化が奴隷に支へられてゐた故を以てそれを否定しやうとする。あれ丈けの犠牲を払ふ位ならばギリシャの文化は地上に生れない方がましだったとする。工場の女工が蒼い顔をして、腹を減らし乍ら日々十二時間づつ働いて絵の具を作るならば、たとへ何十人の李龍珉とゴヤとがそれをつかって大傑作を画かうともその工場はぶちこはして了はなくてはならないと云ふ。(中略)奴隷制度の上に成り立ってゐたのはたしかに欠点であるが、しかしギリシャの文化の価値はそれで否定されるものではない。それが生れた事は何は兎もあれ人類の慶事である事を認めなければならない。(『一人旅する者』17~18頁)
このように滔々と反駁している。そもそも文化が発達しなければ、奴隷制度の是非を問う議論さえ起こりようがないではないか、と。
全局から物を見る者は、一つの現象をそれが道徳的に汚点を持ってゐるからと云って非難する丈けでは足りなくなる。それが人類の全文化史に於いて如何なる意義を持つかを見る。そしてもしそれが一方に於いて何等かの文化史上の役に立ち、貢献となり、一方に於いて人間の欲望を喜ばしてゐるものであるならばその点の功績は見逃さない。そして人類は矢張り全体としては損をしてゐない事を見る。(16頁)
蓋し卓論であったろう。
全面的に同意したい。
要するに日本人にとって、こんな議論はとうの昔に乗り越えた試練だ。
いまさら亡霊に幻惑されるのも馬鹿らしい。海の向こうが如何に過熱しようとも、この大八洲はみだりにそれに浮かされず、静謐で在り続けて欲しく思う。
いつも闘争の犠牲を過少に評価し、闘争の後に来るべき状態を、過度に楽観する。さうしてあとで失望する。人類は何度この経験をくり返したら賢くなるといふのであらう。もう少し現状に耐へ忍ぶことを教へた方が、結局、経済的ではないだらうか。かういふと、現状維持論者のやうになるが、進歩の犠牲を能ふ限り少なくするといふことは、人類に課せられた最大の義務の一ではないか。(小泉信三『朝の思想』12頁)
賢人の言葉の再発信が、その一助となってくれればよいのだが。
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