「黒船
その一報が、箱館を恐慌の坩堝に変えてしまった。
安政元年のことである。
この年の春、三月三日。神奈川の地で日米和親条約が締結された。
全十二条に及ぶ内容のうち、第二条目にさっそく開港地の設定がある。下田は即日、そして箱館は一年後、米国に対し港を開く、と。以後、星条旗を掲げる船はこの二港にて、薪水・石炭・食糧その他必要物資の供給を受けることが可能になると。
調印式が終わるなり、マシュー・ペリーはこういうことを言い出した。「条約の円滑な履行を期すべく、下田と箱館、この両港を実地調査せねばならない」。
なるほど筋は通っている。
幕府としては、頷くより他にない。
江戸の松前藩邸に、直ちに報せが駈け込んだ。その藩邸から更にまた、国元めがけて急使が走る。
藩の家老格、松前勘解由
如何にも時代的な情報伝達速度であろう。
出張先で崇效は、ずいぶんせわしなく働いたらしい。
とにかくアメリカ人という、この厄介極まりない客が住民と接触しないよう――どう考えても面倒事のタネになる――、
街々の境に木戸を設け、
小路という小路には囲いを築き、
二十余丁もの板塀を、浜手海岸に巡らした。
大掛かりな目隠しと言えなくもない、一連の作業に要した費用が、大枚ざっと二千両。
少なからぬ出費であった。
なお、この数字は函館市中央図書館初代館長・岡田健蔵の調査に基く。
(岡田健蔵)
史料収集・整理・保護に敏であり、山積する文字の中から松前藩の抜け荷(密貿易)記録まで洗い出した仁である。
一定の信頼は置いていい。
お触れの類も、次から次へと乱発された。
どういうことが書かれていたか、これまた岡田健蔵の収集したところによると、
アメリカ人は欲心が深く生れ付き気短かであるから、逆ってはならぬとか、殊の外婦人に目を掛けるとか、子供は可愛がるが若しや連れて行かれては不都合であるから、女子供は土蔵に囲まふとか、或は山の手近郷近在の縁家へ避難させよとか、酒は大の好物故に目に掛らぬ様にせよとか、牛、呉服、小間物等は隠せとか云ふ事等でした。(『北海道郷土史研究』280頁)
ほとんど奈落の軍勢でも待ち受けるような騒ぎであった。
実際、当時の人々にしてみれば、そんな気分だったろう。
日が経つにつれ、御触書の内容はどんどん具体性を増してゆく。
港は小舟の往来を禁じ、
陸は馬の出入りを差し止め、
戸や障子、特に海に面している部分には厳重な目張りを施させ、
薬師山への参詣禁止、例え不幸があったとしても男手だけで夜陰密かに野辺送りせよと、そういう指示まで飛んでいる。
どんな朴念仁であろうとも、なにか異常な、のっぴきならぬ重大事が進行中であるのだと、おのずと察しがついたろう。
異常な緊張状態が市内全域を包んでいたに相違ない。
そこへ黒船がやって来た。
四月十五日巳の刻――だいたい午前十時ごろ。汐首岬に配置された人員が、彼方に船影を確認している。
間を置かずして、市中の鐘という鐘が力いっぱい打ち鳴らされた。
ぐわおーん、ぐわうおーん、と。
底響きするあの音は、たとえ平時であろうとも人の臓腑をふるわせる、一種玄妙な作用を有す。況やガラス管並みに張り詰めきった精神の上に於いてをや。
ひとたまりもなく砕け散るのが道理であろう。
市内は急に騒々しくなり、近郷近在に引越すものやら戸締をするもの、役人は役場に詰切りで非常を警め、若しや見物などする不心得のものがあってはならぬと云ふので、辻権九郎と申す役人が早馬に乗って市内を縦横に駈け廻り、迂散と認めたものは片端から鞭で打据えたと云ふ事で、殆んど狂気の沙汰とも申すべきでありました。(281頁)
(函館図書館)
まさしく尻に火をつけられたかのような。
時代の潮目は、スンナリとは越えられぬ。必ずこういう、阿鼻叫喚を伴ったすったもんだが展開される。
それをこうして、泰平の世で、座布団に安穏と腰かけて、紙面を通じて垣間見る。なんという背徳感であるだろう。
歴史趣味とは、もしかすると余程の悪趣味なのかもしれない。
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