人間というのはなんとまあ、一ツところを飽きもせず、堂々巡りばかりしているいきものか。
ロブスターを生きたまま茹でるのは動物虐待、人非人と呼ぶ以外にない言語道断の所業なりと、こう批判する風潮は、べつだん昨日今日に出来上がったものでない。
九十年前の合衆国で、既に痕跡が見て取れる。
そろそろ「毎度おなじみ」と化しつつある武藤山治が、やはり自身の主宰する『時事新報』に書いている。正確な日付は昭和七年十二月十七日。以下その部分を切り抜くと、
米国マサチューセッツの動物虐待防止会で、海老の煮方を規定した話がある。元来何処の国でも海老は大抵生きたまゝのものを料理する。そして沸騰せる湯の中でうでるのが通例である。動物虐待防止会の人達に言はせると、これも不必要な苦痛を与へるのだから、先づ華氏百度の微温湯の中に入れ徐々に熱を加へて行けば、海老は激痛を感ぜずに、徐に生気を失って心地よく死んでゆく。そして海老の味はちっとも変らない。従来の方法は不要な苦痛を与へ、残酷な取扱をするのだと云ふのである。
およそこのような次第であった。
憂愁の詩人、偉大なるニヒリスト生田春月その人は、かつて米国を評すにあたって
――アメリカといふ国は、不思議な国である。「とてつもなく莫迦らしい国だ」と思ふことさへある。そして、日本がこの莫迦らしい国の一層莫迦らしい猿にまで進化するであらうといふのが、悲しいかな、今や私の確信とならうとしつつある。
と、いっそ酷烈なまでの弁辞を敢えて用いた。
春月の当時、インディアナでは凶悪犯への去勢手術が推奨されて、実際に数多の睾丸が切り落とされたし、カリフォルニア、コカチネットの二州では優生学的発想に基き、性病患者の結婚を法律で以って禁止した。
そこに加えて今度は海老を手荒に煮るな慈しめと来たものだ。上の記事が世に出た際、既に春月はこの世の人でなくなっているが、もし聞いたならさもありなんと苦っぽく頷いたことだろう。
(生田春月、大正七年六月撮影)
――それにしても。
と、このあたりで話頭を武藤山治に戻したい。
先ほど私はこの人物を「毎度おなじみと化しつつある」と記したが、そうせざるを得ないほど彼の知見は幅広く、切り口がいちいち面白いのだ。
世界の大勢とはなんの関わりもありゃしないこんな些末な事象まで、この極東の島国に跼蹐する身でよくぞまあ、次から次へと引きも切らずに仕入れられたものである。まったく大した地獄耳だと、感嘆するより他にない。
武藤はまた、1933年のイギリス遠征隊による、第四次エヴェレスト登頂計画を逸早く聞きつけ、記事に表した男であった。文中、デスゾーンに関する描写も見当たり、その領域では「登山者の脚そのものが一尺を動かすにも百鈞の重みを感じ、首を左右に動かすだに鉄鎖で縛られてゐる如き不自由を覚え、登山の軽衣すら非常な重量を感じる」と、いちいち実感に即して精確である。
読めば読むほど、彼を暗殺などという愚劣な行為で亡くしたことが惜しまれてきて堪らない。日本国の文化、否、歴史に対してなんと大きな損失だろう。あと五十年ばかり生かしておいて、激動する風雲の中、気を吐き続けて欲しかった。
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