穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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日本国の物流史 ―町飛脚誕生にまつわるこもごも―

 

 町飛脚成立の経緯については、なかなか興味深い伝承がある。
 折角なので紹介しよう。こんな具合のあらすじだ。


 元和元年、家康公が豊臣家を覆滅し、大坂が主を失ったとき。幕府は当然、この政治的にも軍略的にも重要すぎる経済都市を諸侯の手に委ねる真似はしなかった。直轄領と為し、再建された大坂城には城代が置かれ、更に旗本から警備の人員を選出し、堅く守らせることになる。


 この大坂城御在番中の諸士こそが、意外にも町飛脚成立の鍵となるのだ。

 

 

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大坂城

 


 彼らの任期は通常一年から二年程度で、例外的に長引いたとしても五年を超えることはまずなかった。そのような短期出張だから、家族は当然江戸に残され、単身任地に馳せ向かうということになる。


 が、一年というのは存外長い。ましてやそれが大坂のような人情も風俗もまるで異なる西国となれば猶更だ。かてて加えて、当人が新婚の旦那ででもあった場合、単なる心寂しさでは済まされないことになる。


 男にとって何がいちばん物狂おしい危惧かといっても、おれの留守中に女房が何をやっているかという妄想に勝るものはないであろう。誰だって、

 

この噂 知らぬは亭主 ばかりなり


 と川柳子に諷されたような、馬鹿な目には遭いたくない。


 江戸に置いてきた女房の心を、なんとかして繋ぎ止めておく必要がある。それには手紙だ、手紙がいい。情の濃やかな手紙を送れば、彼女の空閨の寂しさもいくらか癒されることだろう。――…


 このような発想のもと江戸表との通信の道を開くべしと衆に説きまわってみたところ、たちまち多くの賛同者を得た。足腰の弱った父母の容態、子供たちの発育ぶり、顔には出さねど皆胸の内では故郷を想い続けていたらしい。


 斯くして制度が整えられる。


 御在番中の諸士は各々交代で以ってその家来を飛脚と為し、東海道筋の各駅伝馬所と連絡をとり、毎月三回江戸・大坂間を往復せしむべし。


 世人の云う、「三度飛脚」の始まりである。

 

 

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 これに目を付けたのが大坂町人。こと営利に関しては異様な嗅覚を誇るこの連中は、実はとうの昔から、江戸・大坂間の通信事業を始めれば大きな儲けを期待できると見抜いていた。


「天下の台所」たる大坂と、「天下第一の消費地たる江戸。この両都市間の商取引がいよいよ頻繁になるにつけ、自然な流れとして双方の商人同士で情報を交換する必要性が高まった。


 情報を掴むことが、すなわち商機を掴むことに直結する。


 伝達は、早ければ早いほどいい。


「諷刺や洒落は夏の牡丹餅よりも腐りが早い」と俗に言うが、商機の腐敗速度はそれ以上だ。もしこのあたりをよく飲み込んで、迅速・安全に書簡を届ける業者出現あらわれたなら、その者は瞬く間に巨利を博することが出来るだろう。


 そこまで見抜いておきながら、にも拘らず誰も実現に移していなかったのは、ひとえに伝馬所の利用困難による。

 

 

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東海道五十三次 藤枝 人馬継立)

 


 徳川家康がその街道整備政策の皮切りとして全国に布いたこの制度。宿駅という宿駅に一定数の人馬をあらかじめ用意させておき、これらを駅伝的に使うことで伝送速度を飛躍的に高からしめるという仕組み。これを利用することさえ出来たなら、その便利は計り知れない。


 幕府の法制上、それは許されていることなのである。伝馬所の主目的は官文書の往復、官用貨物の輸送及び幕吏諸侯の行旅のためと定められているものの、その人馬に余裕がある場合に限り、一般人民がこれを使ってもよいと規定されていた。


 が、使用にはむろんのこと代金を要し、おまけにその金額に関して一定した決まりがない。


 すべては各駅伝馬所詰めの役人の胸先三寸ということになる。


 この役人というのがまた「お上」の威光を笠に着て、町人をほとんど塵芥視し、たとえ人馬に余裕があっても容易に使用を許さないか、よしんば許したとしても暴利をふっかけてくるゆえに、とても商売が成り立たない。


 伝馬所を使わなければ高速通信は成り立たず、高速通信が成り立たないなら商人どもは金を払って態々輸送を頼まない。自家の中から適当な人員を選出し、そいつをにわか飛脚に仕立て上げる。


 ――結局のところ、絵に描いた餅か。


 そう諦観していた大坂人士は、しかし「三度飛脚」を見るに及んでにわかに再び立ち上がる。


 ――これこれ、これだ。これしかない。


 突破口を見付けた思いがしただろう。


 野心家どもは八方伝手を行使して、たちまち在番の諸士に接近。いくばくかの冥加金を納めた結果手に入れたのは、公然彼らの家来を装う権利――名をりることの黙認であった。

 

 

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 ほどなくして、東海道上に「三度飛脚」の姿が異様に増えることになる。


 むろん、大坂の町人どもが化けた姿だ。しかしながらちゃんと然るべき法被を着し、大小を差しているために、各駅の伝馬所もこれを「御在番の飛脚」と信ずるよりなく、請われるがまま異議なく人馬を供給した。


 かつての画餅は、ついに現実の美味へと変貌したのだ。予想通りこの事業は素晴らしい成果を上げた。その効能を、やがて幕府も無視できなくなり、文三(1663年)には名だたる13の業者に公許を与え、正式に町飛脚問屋を発足させている。しかしながらこれは所謂「現状の追認」に近しいもので、町飛脚の実質的な成立はそれよりずっと以前にまで遡ると見ていいだろう。


 徳川幕府にはこういった、悪く言えば粗雑な、良く言えば融通の利く体質が明らかにある。

 

 

江戸の飛脚―人と馬による情報通信史

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