「男女七歳にして席を同じゅうせず」とは儒教に於ける教えだが、似たようなモノは西洋にもある。
結婚しているわけでもない男と女が二人っきりで一つの部屋に居てはならぬということが、彼等にとって重要な礼法だった時代があった。
滅多にドアを閉じないのは現代でも往々見られる欧米人の生活習慣だそうだが、これはその淵源にあたる一つであろう。
が、長きに亘る鎖国から解き放たれたばかりの日本人には、そんな作法など知る由もない。
外遊先で婦人がせっかく開けっぱなしにしていたドアを、そんなことをしていたらいつまでたっても部屋の中が寒いまんまじゃあないかとか、或いは単純にだらしのない真似捨て置けぬと義憤に駆られ、態々立って閉めに行き、ために相手から危険人物と誤解され、軽蔑のまなざしを向けられる――そんなしくじりが、驚くほど多かった。
ことほど左様に、異文化交流というのは難しい。
実に多く含まれている。
中でも特に面白いと思ったのが、日本とイギリスとでの、足を踏まれた反応の違いだ。
満員電車に代表される人混みで足を踏んづけられた場合、日本に於いては通常踏んだ側が踏まれた側に謝るが、イギリスではこれが逆になるという。まるでそんなところに足を置いていたのが悪いとでも言うかのように、踏まれた側が踏んだ側に謝るのである。
以下、その実例。
私の知人がロンドンで宿の二階へ昇らうとした時、上から宿の娘が降りて来て、階段で通り過ぎる時その知人の足をふんだので、彼が思はず、これは余りよい言葉ではないが、「こん畜生」といふと、その娘さんは日本語が判らないから相手が先にあやまったものと思ひ、「あやまる必要はありません(Quite all right.)」と言ったさうです。(259頁)
内容からして「知人」の語気はさぞや荒かったに違いないのに、にも拘らず悠々と「気にする必要はありません」とは、英国人の国民性がこんな一介の宿の娘の中にさえ躍如として輝いているのがよくわかる。
泰然として容易に動じず、余裕を持ってゆるゆると物事を進行させてゆく――それがイギリス人の特性だと原田は説いて、
今日のドイツの青年は非常時に際会して熱心に死にもの狂ひで目的に邁進しようと努力してゐる。我々は彼等をよく理解して、そこから大いに教訓と暗示とを得ねばならない。またそれと同時にイギリス人のゆっくりやって居るところの平常時の徳義的な生活からも学ばねばならない。(中略)日本人の頭がもともと悪いのなら致し方もないが、日本人の素質は非常に優れてゐる。頭が良いから神経衰弱にでもなると一層ひどいわけだからお互にゆったりと堅実に生活を進めて行きたい。(260頁)
と、加速する世界に警鐘を鳴らす。
中庸を愛する彼らしい口吻であったろう。
まあもっとも、知っての通り後の歴史は一瀉千里の勢いで以ってただひたすらに突き進み、暴虎馮河の勇を奮い尽くしたその果てに、一大破滅を迎えるわけだが。
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