多くの人にとって、故郷とは特別な味を持つものだ。
それは畏れ多くも至尊に於いてすら例外ではないらしい。英邁と名高き明治天皇の御製の中に、次のような一首がある。
昔住みにし都なりけり
1868年10月13日の東幸以降、旧江戸城を皇居として定め給い、この地より皇威を輝かしく発揚させ続けた陛下であるが、生まれたのは京都石薬師の中山邸だ。
春の桜、秋の紅葉を見るたびに、思い出されるのはそんな京都の古い街並み――そうした趣旨の歌である。
望郷の念が、ひしひしと伝わってくるだろう。
にも拘らず、陛下は殊更に京都を訪れることを避けたと、晩年の彼に近侍した栗原広太なる宮内官が述べている。
彼がその著書、『明治の御宇』に於いて語るところによれば、
これも御晩年のある歳のことであったが、宮内大臣は聖慮のほどを拝察し奉って、一再ならず、京都行幸を御勧め申上げたのであるが、一度も御採用遊ばされなかった。そればかりではない、私は行幸主務官として、岡山行幸のときも、久留米行幸の時にも、御途中の行在所を選定するに当り、侍従の日野西子爵と相談して、京都に御一泊の案を立て、御裁可を仰ぎ奉ったのであるが、いつも京都以外の土地を選定せよと仰せられて、原案を御裁可にならなかった。そのため止むなく、更に舞子とか姫路とかを選んだ。(昭和十六年『明治の御宇』9頁)
斯くも頑なに故郷を拒んだ理由のほどを、あるとき陛下は次のように語ったという。
「京都は愛着の深い故郷であるから、何回でも往きたいとは思ふが、それほど懐しく思ふ土地であるゆえ、一たび京都の地を踏むときは、自然去り難くなって、知らず識らず、滞留が永引くやうになるかも知れぬ。さうなると勢ひ、国務を
齢を重ね、かつての記憶が薄くなり、故郷への慕情が薄れたのではない。
むしろ逆だ。年一年を追うごとに、何かと物に感じやすくなる己を自覚し、今の自分がこの世で最も感傷をそそられるであろう故郷京都に脚を運ぼうものなら、どうなることか到底知れたものではない。
ことによれば国務をおざなりにしてまで彼の地に留まろうとするやも知れず、その危険を避けるため、敢えて寄り付かぬようにしているのだと、こうお答えになられたわけだ。
とある内閣が解散したとき、
「卿らは辞職さえすれば、一切の責任を逃れることができる。だが朕には絶対に責任を免れる道がない」
と呟かれた明治帝である。
これぐらいのことを仰られても、なんら不思議ではないだろう。
信憑性は高いとみていい。まこと、かたじけなき限りである。
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