新橋―横浜間に鉄路が敷かれ、そこを汽車が往来するようになり、その運賃が二十銭だったころの話である。
遊郭の格子先に腰を下ろして煙草をふかし、「東京」と改称されてまだ間もないこの大都市の通りを行き交う人波を、何の気なしに眺めている青年がいた。
彼の姓を、野村という。
後の衆議院議員、平沼専蔵が野毛山に邸宅を構える際に腕をふるった人物で、簡潔に言えば江戸の職人の一人であった。
『江戸は過ぎる』が刊行された昭和四年の時分には、どうも棟領格までのし上がっていたらしく、「野村棟領」の名で漫談を寄稿してくれている。
(Wikipediaより、平沼専蔵)
――さて、その未来の棟梁、野村某の無防備な背を。
何の前触れもなしに、いきなり蹴飛ばした者がいた。
(野郎。――)
たたらを踏みつつも辛うじて転倒だけは回避して、猛然と下手人を振り返ればなんとこれが中国人。細い眼を更に細くして、中国語でしきりにまくし立てている。
が、怒りで血が
そのうち相手は泣き出して、両手を合わせ拝むような態度に出たが、野村はどうにも不愉快だった。
というのも、中国人はひとり街を歩いていたのではない。
同人種の連れがいた。
それも何人も。
数で勝るのは圧倒的に敵方であり、この連れどもが加勢すれば、野村などあっという間に血塗れの肉袋にされたろう。
それを端から承知の上で、自分が血塗れになる前にいったい何人を血塗れにしてやれるか――相打ち上等の覚悟を決めて、野村は拳を振り上げたのだ。
ところが案に相違して、連れの中国人どもは一向加勢に来ようとしない。
仲間が殴りつけられるのを、遠巻きにただ眺めているだけである。
殴られている奴すらも、野村に許しを請うばかりで、
――おい、こいつをなんとかしてくれぇ。
と救援を求める気配がさらさらないのだ。
(なんだこいつら、薄っ気味悪い。――)
喧嘩に勝ちはしたものの、胸に汚水を流し込まれたような心地がして、野村はひどく不快であった。
以降、野村は幾度となく中国人と拳を交えることになる。
といっても、この時ぶん殴った相手が復讐を画策したとか、そんな因縁では全然なく、単にこの時期、日本に流れ込んで来た中国人の態度が非常に悪く、そこらじゅうで狼藉を働いていたゆえの話だ。
日本人女性を暗がりに引きずり込もうとしたり、土足で店に上がりこんだりする姿を、日常的に見たという。
日本人を見下すこと甚だしいこの連中を殴り飛ばしている内に、野村は徐々に彼らの生態を理解した。
喧嘩をして、日本人が勝とうものなら、その日本人には決して手を出さない、又強い日本人に自分達仲間が目の前でいくら撲ぐられて居ても、決して助けない。だが、一度日本人が負けやうものなら、皆して大勢寄ってたかっていじめる。(『江戸は過ぎる』260頁)
拳で学んだ真理であった。
――ところで。
と、ここで話頭を転換させたい。
一連の記述に目を通すうち、ふと古い記憶の疼きを感じた。
――中国人に気をつけろ。
近所に住んでいた、とある老爺の口癖である。
下膨れの顔付きに、日焼けして赤銅色に染まった皮膚。そのうえ思い切って目玉が丸く、ダルマとしての特徴を、完備していたといっていい。
だから幼い私などは、内心密かに彼のことを、
――ダルマの爺さん。
と渾名して喜んでいた。
私が山梨の農村出身であることは、以前どこかで書き記した通りである。
鄙びた地方の常として、少子高齢化が上げられる。私の故郷も御多分に漏れることはなく、その傾向が相当以上に強かった。
老人ばかりが多く、子供の姿は稀少。そのことと、私が高齢者の方々から妙に可愛がられたことは、きっと無関係ではないだろう。
同年代の子供たちと遊ぶ代りに彼らの家に招かれて、とうに火の絶えた土間の竈や、年季の入った足踏みミシンを見せてもらったりしたものだ。
(Wikipediaより、土間)
さて、私が紅顔初々しい少年であったのは、もう二十年以上も前である。
そのころ既に「老人」と呼ばれていた方々は、むろんのこと経験している。――「日本」が再び五つの島に押し戻された、前古未曾有のあの戦争を。
七十四年前の今日この日に終止した、大東亜戦争の実景を。
ダルマもまた、そうした時代の生き証人の一人であった。徴兵され、中国戦線へ赴き、そこで地獄がどんなところか厭というほど味わわされた。
流石にその時の経験を克明に語り聞かせはしなかったものの、代わりに次のようなことを幾度となく私に言い聞かせてくれたものだ。
「中国人は偉くなる。これからは中国の時代になる。中国人に気をつけろ」
幼いながらも、私はこの言葉に引っかかりを覚えずにはいられなかった。
――どうして「気をつけろ」なのだろう。
中国が将来そんなにも偉くなるというのなら、仲良くしておけ――友好関係の構築を奨めるのが普通の感性ではなかろうか。
少なくとも、学校の先生方ならそう言うはずだ。「宇宙船地球号」だの「人類皆兄弟」だの何だのと、その種の空疎な文句を馬鹿の一つ覚えみたく繰り返し、生徒そっちのけで悦に入る、あのコスモポリタン気取りどもなら。
ところが戦時中さんざん中国人と接したというダルマの口から聞かされるのは、友好どころか警戒心を煽る言葉。
齟齬は疑念を生み、疑念のぶんだけ興味が募った。
三つ子の魂百までも。私が歴史、特に近現代史に対して並々ならぬ熱視線を注ぐようになったのは、間違いなくこの幼少期あってのことだ。
我が人生に影響するところ大である、そんなダルマも、私が高校生の時分にぽっくりこの世を去ってしまった。
もっと話を聞いておけばよかったと、今更ながらに思う。
あるいは、盆という季節がそうさせるのか。
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