土地に関する騒ぎというのは常に絶えないものらしい。
明治三十年の市区改正で、浅草区並木町通りは西に向かって五間ほど取り拡げられる運びとなった。
簡潔に云えば道路拡張、ためにまず、工事予定地買収が前提として不可欠である。
並木町通りに地所を持つ江戸っ子どもが府庁に召喚されたのは、同年六月二十五日のことだった。
(浅草寺にて撮影)
用件は分かりきっている。
はてさて「お上」の気前の良さは如何ほどか、値札にいくら書く気かと、欲のそろばんを弾きつつ出掛けていった地主らは、
――人を虚仮にしくさるか。
と、突きつけられた条件に一同こぞって色をなし、今にも唾を吐かんばかりの険悪ムードで帰還した。
「角地は一坪三十二円~三十五円、
平地は一坪三十一円~三十二円」
上が府庁の評価であった。
この条件で買い上げてやる、せいぜい謙虚にありがたがって従えや、と。
江戸時代なら町人に文句の捻じ込み口はない。へいへい御無理御尤も――と、平伏しながら呪詛を籠めるが関の山であったろう。しかし時代は明治も後期、明治憲法施行から、七年弱を既に経ている。
「官」が「民」を抑えつける腕力は、決して昔ほど自在ではない。大衆は、日に日に不遜に赴きつつあったのだ。
(浅草、ガマの油売り)
――わしらを相場ひとつも知らぬ田舎者と思うたか。
――どこの阿呆がこげな安値で一等地を手放すんじゃい。
口々に言い、彼らは団結。最低「三割の値上げなきには」、決して土地は売らぬぞと気息を揃えて主張して、府庁と喧嘩を開始した。
ちなみに明治三十年の三十五円を現代の貨幣価値に換算すると、だいぶ甘めに見積もって、ざっと七十万円だ。
首都東京の心臓部、二十三区の土地の値段が、なんと一坪七十万円。
地主たちの要望がそっくりそのまま受け容れられて三割増しになろうとも、九十一万、三桁には届かない。
山手線の内側だけで、北米大陸合衆国全体と地価で拮抗し得ていた、バブルという、狂乱の時代を通過した目で見てみれば、明治の騒ぎはいっそ可憐ですらあろう。
(昭和、浅草木賃宿)
そういえば昭和七年でさえ、新宿辺には養鶏場を
五百羽からを飼うという、当時にしてはなかなかの規模のものだった。
都会の新陳代謝は激しい。その激しさが、現状から過去の姿を推し量るのを、ひどく至難なものにしている。
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