穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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一八五四年、幻の琉球占領 ―紙一重の歴史―

 

 開国以来、多くの日本人がアメリカ合衆国を訪れた。
 留学なり、観光なり、事業なり、その動機はまちまちだ。やがて時代が下って来ると、彼の地で演説ないし講演を行う日本人とてちらほら現れるようになる。
 そんなとき、劈頭一番、彼ら弁士が話のすべりをよくするために決まって持ち出す名前があった。


 マシュー・カルブレイス・ペリー


 一八五三年浦賀に黒船で乗りつけたペリー提督その人である。

 

 

Commodore Matthew Calbraith Perry

Wikipediaより、ペリー) 

 


 ――貴国からペリー氏がやって来て、日本の国を開いてくれた。それが為に日本の受けた恩恵は、実に大なるものである。


 当時の日本人弁士たちは、決まってこのような趣旨のことを演説内に盛り込んだという。
 それゆえ聴衆にしてみれば、ペリーの名を聞く度に「またか」という感を起こさずにはいられなくなり、その時点で「どうせこいつもお定まりのことしか言わない、ありきたりで退屈な奴」と色眼鏡を通してでしか見て貰えなくなる。早い話が、マンネリに陥っていたといっていい。


 逆にペリーの名を一切出さずに話を進める日本人が出現すると、それだけでもうアメリカ人は珍しがった。大正十二年にシアトルで演説した伊藤痴遊がその好例たろう。

 


「伊藤君、君は、何故ぺルリの事をいはなかったか」
 と、いって、ハント氏は、私の肩を叩いて、哄笑した。之を聞いて、外の人も皆な、手を打って笑った。
 私は、止むを得ず苦笑したが、実に恥かしい気がした。(大正十五年『痴遊随筆』641頁)

 

 

 演説後の一幕である。
 ハント氏とは、当時のシアトルに於ける名士。
 その彼から、このようにジョークネタに使われるほど、日本人はペリーの名を濫用していたわけである。

 


 ――そのペリー提督が。

 


 浦賀を訪れる以前、アメリカ政府に向けて送った公文の中に、たいへん興味深い項がある。

 


「イギリスは既に東インド及びシナ海に於ける最も重要なる地点を所有してしまった。ところが幸いなるかな、彼の日本並びに太平洋の多くの島は未だ手を触れられずに残されている。而してそのあるものは合衆国に最も重要なるべく運命づけられた大商業の通路に位している」


「我が軍艦の碇泊の為にも、各国商船の避難地としても琉球を獲得せねばならぬ」


琉球を獲るは、道徳上の法則、厳密なる必要の原則に合す」

 

 

 

Kurofune

Wikipediaより、黒船ことサスケハナ号) 

 


 ペリー自身の執筆による『日本遠征記』内で展開された、「我々は我が国の増加する富と力が我が上に置く責任から常に免れ得ると考えるは愚だ」という所信とも違和感なく合致する提言であろう。


 国家が成長を続ける以上、ヒトとモノの捌け口はいついつだとて要り様である。


 それを新たに獲得する為ならば、武力行使とてなんら厭うところでないと、ペリーの論旨は明快だ。帝国主義全盛のこの時代人の在り方として、至極真っ当といっていい。


 が、ペリーを恩人と讃えたかつての日本人弁士たちは、ペリーのこうした為人ひととなりを果たして知っていたのか、どうか。


 当時の合衆国国務長官エドワード・エヴァレットも、ペリーの姿勢を良しとした。彼は一八五三年二月十五日付で「武力を用いずして日本本土で船舶を入れる港を与えられざる場合、小笠原・琉球の主要港を占領するに同意す」と、ペリーの琉球獲得に許可を与えた。


 結局江戸幕府アメリカの圧力に屈し、一八五四年三月三十一日横浜村にて日米和親条約を結んだために「武力を用いずして日本本土で船舶を入れる港を与えられざる場合」の前提条件を果たせなくなり、ペリーの望んだ形での琉球獲得は成らなかった。


 全国の志士は幕府の態度を弱腰とののしり、夷狄の暴慢に切歯扼腕憤慨し、やがて攘夷熱が狂ったように急騰を来すことになるのだが、それでも幕府のこの判断がなかったならば一八五四年の時点で琉球の空に星条旗が翻っていたことは想像するに難くなく、のちの日本史――否、世界史の流れさえも、大きく変化していただろう。

 

 

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 ペリーの琉球占領を阻んだ要素はもう一つある。
 合衆国本土に於ける大規模な政治事情の変化――すなわち、大統領の交代劇だ。


 ホイッグ党ミラード・フィルモアから民主党フランクリン・ピアースへ。


 この二人は所属する政党のみならず、太平洋政策についても全然思想を異にした。


 はっきり言えば、ピアースは明確に東洋に対して非膨張論者の姿勢をとった。そんな遠隔地よりも合衆国の至近にあり、おまけに地続きなアリゾナニューメキシコをこそ欲しがった。


 事実、この二州がメキシコ政府から正式に買われ、アメリカの領土に組み込まれたのはピアースの治下に於いてである。

 

 

Franklin Pierce

Wikipediaより、フランクリン・ピアース

 


 よって、海軍長官ジェイムズ・ドビンと協議の結果、ピアースはペリーの琉球占拠に不同意の声明を発表。このとき実に一八五四年五月であった。
 その二ヶ月後の七月十一日琉球を訪れたペリーが、破船水夫保護並びに必要品供給の協定琉球と結んだだけで済ませたのは上記のような事情に依る。


 もし、幕府が和親条約の協議を中途で蹴っていたならば――。
 もし、ペリー来航があと二年ばかり早かったならば――。
 ペリーはこの地で、まるで異なる役割を演じていたに違いない。


 それを思うと寒心に堪えぬ。歴史とは、なんと際どいところで成り立っているモノであることか。

 

 

ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫)

ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫)

 

 

 

 


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